自分の中で確信できることは確かに実現可能なことだ。
私がずっと書き続けていて、物語を書くことをやめないのは、「浮かぶ」からに他ならない。
正直たまにどうでもよくなって、自分の作品をすべて捨て去って、どうでもいい作品を並べ立てる出版社や、一年後二年後手元にとっておきもしないのに、どうでもいい本に出資し(買い)、一過性の騒ぎに加担し、数年後に読み返そうものなら「ええー?まだそんなの読んでるの?もう古いよ」という、人間たちに烈火のごとく怒り、憤死したくなる。
自分が物を書けば人が動く。
それが一人二人の小さな力にしろ、なんにしろ、その手ごたえを確実に感じる。
「どうしてやめないのか」の理由に、まず「手ごたえ」があげられるのだが、もうひとつ、「限界が見えない」というのもひとつある。
他の仕事をしているとき、漠然と感じる「ああ、自分の実力ってここまでで、これ以上は伸びないのだろうな」と、湧き上がってくるような諦めがない。これは不思議だと思う。
他の人のを読むと、特に最近の作家は「きっとこの人ここまでの実力なんじゃないのか」と見れば、たいていその殻を破る人はいない。
結局その程度なんだよね。編集者も会社も悪いと思う。やたら夢もたせて「消費」し、「捨てる」。常套手段だよね。
自分は何をどうすれば伸びるのか、自分の何が足りないのか、自分でよくわかってきている。
今私は五年かかっても書ききれないくらいのネタがある。
ネタがあってもそれを構成する文章をひねり出すのは大変な作業なのだけれどね。
こういうブログは三十分もかからないうちに書いているけれど、本当に質の高い文章は数行で一時間かかったりする。
読者は読み流す程度の一文に、途方もない労力がかかっていたりもする。
だって、書いているときだけが「仕事」じゃないもの。
日常とそこで培われた感覚のすべてが導入されている。
第七感ぐらいまでフル導入しないと無理でしょ。「宇宙の神秘の力」までも借りないと、「書けそうで絶対書けない文章」なんてできないでしょ。
本当に洗練された文章って、一見マネできそうだけど、やっぱりできない。
それがよくわかってくる。
面白いよね、技術職って。職人みたいなものなんだよね。
「人生は暇つぶし」とどこかで昔偉い人がいった。
自分はこう思っている。
「人生は何かを成し遂げるにはあまりにも短すぎて、何もしないでいるにはあまりにも長すぎる」
愛を語るには充分すぎる時間だけれど、人類を幸福にするにはあまりにも短すぎる。
文句を言うには長すぎる時間だけれど、褒めて伸ばして見つけて次世代につなげるには少々短い。
人生における目標について「出会えるか出会えないかだ」と言った人がいる。
私はそうは思わない。
まだ「出会えるか出会えないか」を考えている人は、正直言って「哲学がない」のだと思う。
「哲学」とは小難しい理屈を並べ立てる、あの哲学のことではない。
自分が常に他者に対してどう接しうるかという理念を持っている人だと思っている。
私は私の持てる力を使って他者によい影響、考える力、立ち止まってなんでもなかったものを大切だと考え直す、流れていた日常に疑問を投げかけ密度を変える、などなど、与えることを色々考えている。
自分の中できちんとぶれない芯があれば、この先何があっても迷うことはないように思う。
そしてこの先必ず他者にとってよいものを作り上げられると思う。
私は、「世界一の芸術都市」を作りたい。
これは生涯プロジェクトだと思っている。
自分が死ぬまでに、どこまでできるかわからないけれど、やれると思っている。
今の利益主義の出版会や芸術界を根こそぎぶっ壊したい。
確信できてもできない人は、つまり怠惰に他ならない。
怠惰。
そう、自分のことだわこれ。
心臓がパクパクいって不安になるときがあるけど、大丈夫かね。
これ蛇足。
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