知り合いの身内が癌になってしまい、治療に専念している。
知り合いは、ブログを書いていらっしゃるので、いろいろと様子はわかるのですが、その中で、
病院側は厚生省から出ている通達が原因で
長く入院させることが出来ないらしい。
(朝風注:厚生労働省)
というフレーズがあり、一度退院させられたのち、再入院ということになったようだ。
親御さんからも、「子供の体重や体調管理に気をつけないと、(体重などが)基準値から上回ると、児童相談所などから指導される」ということを聞いた。
「それって、行政指導やん(笑)」と話したが、複雑な気持ちだった。
法律というものは、水槽の中の魚を泳がせるごとく、理性を前提としていなければならない。
誰もが、「この魚は、水槽の外には飛び出たりはしねぇだろ」と考えて水槽の中のことを考えていくのだ。
あとは、関係性の問題なのだ。
「外来魚はあっち。国産魚はこっち」
基本的には理性と良心があるということを前提として、作っていかなければならないものを、最近の規則や法律というものは、すでにこの理性と良心を疑ってかかっている。
極端な話、いくら法律や規則を作ろうと、理性や良心がなければ、それは守られることはない。
新しくどんどん作ればよくなるという話でもないのだが、
「国産魚同士で共食い始めたよ」
「いやいや、時折外来魚が」
という感じで理性と良心を疑ってかかっているので、規則や法律は増え、厳しくなるばかりだ。
国家や行政、というものは、「民衆」という単位で人をくくっていかなければならず、「個人」は「民衆」という観念から保護しなければならない。
「民衆の秩序」を守るために「個人を罰する」のだ。
「個人の秩序」を守るために「民衆を規制する」のではない。
個別の例で見れば法律は「個人の保護」だが、社会上のシステムとしてある法は決して「個人のため」にあるものではない。
それは「国家秩序」のためにあるものだからだ。
個人を縛るようになると、法としては下の下。
しかし、最近は何かと、国家が「各家庭にまで介入」するようになってきた。
これは国家としては、すでに「民衆を信じていない」という状態に近い。
逆を言えば、「個人の価値観の肥満化」である。
個人の価値観はエゴと同一化しやすい。
つまり、均衡を保たなければならないエゴが、すでに「糖尿病状態」のように、いきすぎている。
このために、自分勝手すぎる、時には他人の生命をも脅かす行為となって社会に表出する。
当然、そこで「なんとかしましょう」「なんとかしてくれ」こういう声が多数上がる。
そしたら、もう、規則規則ですよ、これ。
なにこれ。
行政ももっとマニュアルっぽくやるのではなく、現行のシステムを生かして「コミュニティー」を作っていけばいいものを、いかにも「機械的」だ。
昔っから、そうらしいけど、公務員(というよりお役所とか)は、仕事はきっちしりなきゃいけないけれど、民衆と接するときまできっちりしなきゃいけない、なんて規則は・・・あるの?
あるならやめてよ。
ぶっきらぼうすぎて、「こいつ本当に今楽しいのかな」って疑ってしまう。
警察官はたまにおちゃらけた人いて楽しいけれど。
うちの父親が物凄く申し訳なさそうにスピード違反の罰金取られたって言ってた。
トーカ堂の北さんみたいな様子が浮かんだ。
「あの~、すいません~。ここ~60キロじゃなくてぇ~、50キロ制限なんでぇ~、15キロオーバーでぇ~、19800えん~」
とか、なんとか言ったかは知らないけれど。
極端な状態として、法律も規制もなくて、各家庭の躾が行き届いていて、なにひとつ問題が出ない社会というのが究極の理想状態なわけだ。
それが「国家」という単位として存在しえるのか、というのは別としてね。
本当に人のために役立つ規則というものは、規則や法律そのものではなくて、人と人との相互作用から生まれるのだと思う。
気づくはずの人への感情が麻痺しているというのが一番の問題なのだろうけれどね。
文句だけから規則を作れば、人は生きてこない。
人を規制することを考えるよりも、どのようにしたら人が自然に繋がっていくかを考えたほうが、ずっと正常な社会がうまれてくるように思う。
それはもう法律の範疇ではなくて、人々の意識の問題だけれど。
マニュアル行政じゃ、いかにも不自然すぎる。
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