愚公山を移す(ぐこうやまをうつす)~中国故事街より~
http://www.katch.ne.jp/~kojigai/gukouyamawo.htm努力は報われない。
年をとると当たり前のように受け入れられるようになってくるが、若い時はまったく理解できず周囲を恨んでいた。
「努力した」というものは独善的な感情で、それは苦しい思いをしたからすぐに自分を認めて欲しい、その労力を労って欲しいという感情に近く、テストでもあるまいし、特に作品なんてものを扱っている限りは、その努力など作品でしか見えてこないものを、きちんと客観的に見る力に欠けていたのが大きな理由だ。
自分は凄いものを書いている・・・つもりなのが10年経ってみるとわかる。
今なら赤ペンで自分の文章が真っ赤になるほど直す箇所がある。
酷い文章を書いていたものだ、と思う。
今でさえ色々言われる。
20代の頃は本当に先が長く、ガチで眩暈がして、動悸がして、もう嫌だな、どこまでやればいいんだよ、なんて思っていたけれど、色々経験して表現したいものが豊かになってくると、結果的にはよかったし、いかに自分が未熟であったかがよく理解できるようになった。
さて、肝心の努力は報われない、という意味なのだけど、端的に言うと、
「自分の望んだ通りになんか、なるわきゃねぇだろ」
ということなんだ。
当然物事を通したいのなら、現代では努力よりもアイディア。
そのアイディアを現実的に進めることの出来る徹底した力。
これが必要。
どうして最初の故事を紹介したのか。
ここにはとても大事な事が書かれている。
まず、時間的な捉え方。
個人主義が横行していると、息子が継いでくれて、孫が継いでくれて、なんて壮大な考え方はできないかもしれないけれど、肝心なのは「こうしたい」ということを人に見せ続けるということだ。
そして今の世、というか日本は「何歳まで何をして」「何歳からは遅い」とか、本当にうざったいほど他人の固定観念に晒され自信すら失い、やる取っ掛かりすらも潰しあっているような状況に感じるかもしれないけれど、大事なのは「やり遂げようとする日々の行為」だ。
他人は常にそれを見ている、ということ。
当然尻込みすれば「ほらできなかった」ということを証明してしまうことになるし、あらゆる他人の意志や意見に集中力が削がれるくらいだったら全ての情報を遮断した方がいい。
「何をやり遂げたいのか」
目標意識は大事な事だ。
ゴール設定がないと物事はどこまでもあいまいになる。
物事には段階があることを忘れずに、次にすべきことを調べて行動する。
「限界を自ら設定しない」
仕事は時間に縛られるが、少なくとも「何歳だから遅い」などとは考えてはいけない。
やりもしないことを否定する人間は、いつか他者の可能性を潰す。
人の可能性を潰すような有害な人間になってはいけない。
それだけで社会の多様性は失われていく。
「他者を得させる行為をする」
自らのみに利益があるようなものは他者は振り向いてくれない。
そして理解してくれない人を憎んではいけない。
これは自分の感情だけを見つめていることだから。
勘違いしていけないのは、この「得」とは「金銭的な利益」のことではない。
「得」とは沢山の人と関わって見えてくることだから、どんな目にあっても人と関わっていく勇気を忘れないで欲しい。
そこから初めて「得」が見えてくる。
もしかしたら「徳」にも繋がる行為かもしれない。
誰も見ていない、と思っているのは自分だけで、やはり誰かが見ている。
こんな誰も見ていなさそうな個人ブログでも、ひょっこり誰かが来て気まぐれにコメントしてくれる。
誰も見ていない、自分は孤独だ。自分だけが苦しい思いをしている。
よく精神が荒んでくると思ってしまうことだけれど、もし思い込みそうになったら声を出そう。発信しよう。色々知るように感覚を広げよう。
わりとなんとかなってくる。
このことは楽観主義ではない。
自らを取り囲んでいる現実であることを理解すると、世界は開けてくる。
また、他人は見ているということは、その努力が個人的に報われなくとも、誰かを勇気付けるかもしれないし、誰かの心を打つかもしれない。
思い通りにはならない。
だから努力は報われない。
でも、努力を続けないと、思い描いた全ての事は叶うはずもない。
過去の自分は全て糧だ。
寄り道の先に何か見つかるかもしれない。
そう考えると可能性は無限大になってくる。
昨日の自分を超えてゆければ、今より見えてくるものが沢山あるし、助けてくれる人も現れる。
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