生まれて初めての強烈な二日酔いで一日を潰した。
朝から晩まで胃のものを全部吐き尽くしても、まだ胃液が出てくるというありさま。
せっかくいただいたものまで吐いてくるという、いかにも大人気ない飲み方。
色々と細かなことで鬱憤が溜まっていた。
飲みに出かけて、それが人にわかったのだろう。
店のマスターに「ここはストレスを発散させるための店じゃない。そんなのはもう許さない」と言われた。
新しい店員がいて、調理専門だったと聞き、その腕をみたくなった私は、最初におごりで出してもらった料理に「こんなんじゃ腕がわからないから味で勝負して来い」とお金を払って作ってもらった。
もちろん最初に出されたものは全部食べたけれど。
最初はソーメンサラダ。それなりに単純ながらも工夫を凝らしていた。酔客には充分だとも言える思いやりあるメニューだったが(強い酒を飲んでいたので、脂っこいものや胃にもたれるものは避けたのだろうという思いやり)、これではまだ彼の本当の腕はわからずじまいで帰ることになる。たぶんカチンと来るだろうと思って言ったけれど、やっぱり思惑通り本気を出してきた。
「せっかくおごりで出したものをつき返してあの言い方はない。いくらでも厨房貸してやる。そこまで人に言うなら、人を納得させるだけの味を作ってそれを示せ。それならあいつも納得するから。あいつ優しいから、ああやって作ってくるけど、もうそんなやり方はこの店じゃ許さない。じゃあ手本示してと言って、俺料理作れないじゃ誰も納得しない。自分でできないことは人に言うな」
そうマスターに言われながら、彼が作ってくる料理を楽しみにしていた。わくわくしてたまらなかった。そしてしばらくして、おいしいスープカレーを出してきた。
出来合いのものでしか作れないけど、とは言ったけれど、それでもいいからそれで勝負できるものをどうぞ、と言ったら、本当にお金を払う価値があるというか、単品でも立派に店を出せる味を出してきた。
あの店とはしばらく仲良くはできそうもないけど、良い思い出というか、記憶に残る立派な味を堪能した。
嫌われ者とはなったけれど、自分のやったことに対しては後悔はしていない。
そのお店がどのような方針でやるかは、その店が決めることで客が主体になって決めるわけじゃない。
店としての主体があって、そこにお客が賛同するスタイルを最後にとったのなら、それでいいと思う。いい店だし、これからもよくなっていくと思う。
ストレスが溜まっているのは否めない事実だった。
でも「できないことは言うな」というのは、私は半分反対。ただ、私のスタイルとして反対なだけで、他の人にまでは強要しない。自分のスタイルは持っても人に押し付けないのが最低限の礼儀だけれど、私はよく下品になる。下品な自分が好きだったりもする。
自分が一生懸命作ってきたものに対して、わかったような口ぶりをされれば私もカチンとくる。だから言ってみた。志があるなら反抗してくるはずだし、必ず忘れないで覚えているはず。恨まれてもいいけれど、本人に向上する意思があるかどうかは、そこに眠る志にあると思う。
みな、それを持っているから頑張ろうという気持ちになる。
私がどう言われようとも文章をやめないのは、ここにしか自分の生きられる道がないと思っているから。ここで活躍することで、私は多くのものを生み出せると信じているから。私の作るもので人を変えられると信じているから。
最初は誰も信じてくれない。なぜならちょっとやそっとで出る結果なんて努力じゃない。才能があっても、それを維持させられる努力だって必要だ。みな、何かしら苦労はしてきている。馬鹿にされても、やめろと言われても、自分を信じぬき、努力したことで勝ち取った成功だ。
本当にやりたいと思うことなら、だったらやってやるよコンチキショー!って思う。
味は直接わかる。文章はどうなのだろうと思う。
直接届いているのだろうか。あいかわらず、ちょっとわかりづらい文章ばかりで、ここを数行読むのにも苦労がいるのかもしれない。
読者のことを考えないで、思ったことからつらつら書いて、重要な主語が抜け落ちていたり、あいまいな表現でありふれていたりで、他人に読ませる文章というよりも「心のメモ」に近いのかもしれない。
自分が書いている、お話そのものも、爆発的に人気が出るということはない。地味に地味に宣伝して、ようやく一人、また一人と知ってもらっている状態だ。
私が食べた伝説のスープカレーみたいに「おいしいからあそこに食べにいけ」なんて口コミで広がるようなものもない。
いつ道が開けるのかと不安になったり、これでよいのかと不安になる。自分を信じる力が失われたり、数々言われた否定語がふつふつと心に再現されて、重なってくる。
あの時言われたあの言葉。この時言われたこの言葉。見下された言葉だったり、否定された言葉だったり、馬鹿にされた言葉だったり、現実を見ろと辛らつに言われた言葉だった。
そういう言葉の数々が、心の中に溜まっていて、ふとしたことで思い出していてもたってもいられなくなる。
溜まった言葉が心を汚している。
できないことは言うな。
私のお話を読んでくれた人は、思ったとおりに言う。言わせている。どんな意見でも必ず聞く。それが役に立つかたたないかは自分で判断する。
相手が文章をかけないからと言って、「お前がじゃあやれよ」とは言わない。それが、どんなに子供じみているか、自分でよくわかっているからだ。だって、やっているのは私。できるのは私。やろうと決めたのは私だから。相手になすりつけてもしょうがない。放棄したと同じことだから。
人あっての文章だ。人の心に届くために書いているのに、人を無視するわけにはいかない。だけれど、媚びるための文章ではない。媚びた文章は下卑たゴミであって、ただの心を売り払った中身のない魂だ。
そんな、自分の信条がある。
嫌われるのや失うのが怖くて博打は打てない。人に好かれるような行為ではないけれど、私は私の感じたいままに動く。そこに賛同しようとしなかろうと別にかまわない。
なんらかの形でいつも返そうとは思っている。あの時、ああしてしまった。自分がしてしまった失態。あの時、ああいう恩義を受けた。純粋に思いやりをくれた人には、恩返しを少しずつしている。
自分はいつ、こんなクソガキをやめられるのかと思いながらも、クソガキな自分が反面好きだったりする。嫌悪したり、好きだったり、あっちいったりこっちいったりで疲れるけれど、吐いて胃が痛んで、どこかすっきりした。
Tくん、戻してゴメン。でもとてもおいしかったです。あなたにとっては嫌な客かもしれないけれど、私にはよい思い出ができました。ありがとう。
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