自分の人生を歩んでいないから誰かのせいにしたがる。
自分の人生をコントロールできないから誰かに支配される。
操られ、己の意思を曲げられ、従うことが正しいと調教される。
奴隷になるのか、それとも自らを操るのか、意識と行動で全ては変わる。
殺したい人間がいる。
誰かを殺す前に自分を殺したい。
自分が一番危うい。
自分がもし何かをしたら、みんな驚くだろうな。
あんな子が信じられない。
よくテレビで言われることを言われるのか。
身内は知らない。
自分がどんな気持ちなのかも。
自分がいなかった。
表現できなかった。
そんな気持ちで過ごしてきた。
殺されてきた。
行動すらできずに潰れてきた。
クズに成り下がっていた。
私は弱きものの王だ。
甘えすぎたクズだな。
今日も吐き気がする。
6月24日、人身事故があって、出先から帰るのに1時間半ほど遅れた。
ちょうど高校生たちが帰る時間帯らしく、駅にはたくさんの人がいた。
そこはベッドタウンの駅なので、会社勤めのサラリーマンなどは、ほとんどおらず、恐らく都市部の中心駅から、こちらの駅に来る人間がほとんどだ。スーツ姿の人間は指を折るくらいしかいなかった。
みんな早く家に帰りたいと思っていただろう。
よく次のような言葉を聞くことがある。
「死ぬなら迷惑かけない方法で。死んでからも迷惑かけるなんて」
生きている人間が理性的に、死にゆく人間を批判することがあるが、「?」と私は首をかしげる。
誰かのことを思いやれる気持ちの余裕があるなら、その人のことを考えて「死にたい」とは思わないはずだ。
自己を破壊するのは最終的な破壊行為だ。もうそれ以上は破壊しようがない。「世界との断絶」を意味する。
わざわざ言葉にしなくとも、誰しも「死」の意味はかわっている。
しかしそれは、多くの人間が「生の側から捉えた死」でしかすぎない。
死にゆく人間の多くは「死の側から捉えた生」というものを捉えるのではないだろうか。
新聞ではない、リアルタイムで起こった人の死という事件。
なぜ死んだのか、気にはしたけれど、調べるまでにはいたらない。
自分をどのように表現すれば、自分がどのように活躍すれば、自分はとても楽しくなるのか、どうにも「夢を語る人」に、ここ最近出会ったことがない。
こうしなければならない、こうしたほうがいい、しかたない、なにもわかってない・・・などなど、随分と自分を縛る言葉の多いことか。
自分を解放させるような言葉にあまりであったことがないのがとても不思議に思う。
なぜだろう。
時間に縛られているから、限られた時間の中で利益活動を行っているから、効率を追い求め、利益のために多少えげつなくなっても、それが常識だと思い込む。
きっと、人身事故が発生しても、痛み入るどころか、死者にムチを打つような考え方をした人は少なくはないと思う。
逆転の発想ができないから、既存のものに縛られて革新的なことができない。
ちょっと笑い話になるけど、ドリフのコントで加藤茶のハゲオヤジが瀕死の人を囲んで泣いている家族に混じり、「あいつもう死にそうだ」とか「棺桶の寸法はこうだな」とか、葬儀の準備を勝手にするというものがあった。
いわゆるタブーを無視した逆転の発想で見事なコントに仕上げている。
効率を無視したら何が残るだろう。利益を無視したら何が残るだろう。
その逆転の発想から人間を生かす利益活動はあるのだろうか。
もう少し人を殺さないようにする方法はないのだろうか。
年間4万も自殺で死んでいるんだから、もはや国内では交戦状態だと言っても過言ではない。
戦国春秋の大きな合戦でさえ、それほどの死者を出さなかった。
だが、現代で一年間の戦争で死者4万人と言ったら、日本人はどう反応するのか。
4万という自殺者を異常と思わない現代人こそ異常だと私は考えている。
みんないつか死ぬけれど、死にそうな気持ちほど悲しいものはないし、虚無に満ちたものはない。
自分はここにしかいない。自分探しなんてしても無駄だ。自分を生かせる環境を作ることが自分を見つけることに繋がる。苦しいのは充分だろ。
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