母親は我慢を続けた。
父親は感情に勝てずに当り散らした。
息子は優柔不断で何も決められず言い訳ばかりで鬱になった。
やがて三者は各々の背負ったものをあふれ出させる形となった。
母親は壊れ、父親は狼狽し、息子は停滞し、やがてその形が上手い具合に収束へと向かった。
母親が安定し、父親は考え直し、息子は最後の思春期の鬱憤を晴らした。
息子はまだろくでもないが、父は病気で自分の体と命とを考え価値観を改め、母親は頑張って琴の練習を続けながら祖母の介護を続けている。
ろくでもない息子だということはここにずっと書いているし、実は父親はこのブログの存在を知っている。
ちょっとしたトリックはあるけれど、わりと本音のようなものに近いものを垣間見れるのは私たちの間ではここしかない。
先日、変なブログを書いたというか、なんだか文面では死にそうな勢いだからちょっと心配してくれたようだった。
言葉にこそ出さないが素振りで出る。
こんな自分でも、心配してくれるのだなと深く感謝したい。
私たち家族は、これも何回か書いたが、運よく今いい形でまとまっている。
あれだけぎくしゃくしていたのが、横目でもきちんとお互いのことを心配するような仲になっている。
長い時間がかかったけれど、運という言葉を書いたけれど、父は状況の改善に努力した。
母もとても強い精神力を示した。
残るは自分だけだ。
親も老いていく。
昔のような若い時の覇気は柔和になり、人が丸くなっていく人がほとんどだ。
年を取ると中年に思っていた「死」とは違う形で現実味を増す。
だから、残りの人生を真剣に考えたりする。
たまには嫌味を増し、後悔や鬱憤ばかりでどんどん嫌になる人もいるけれど。
でもね、親は親。
自分を作った人。
この親いなければ自分はなしと思える部分が良くも悪くもたくさんある。
もう自分の中で「これは親のせいだから」なんて思う部分は、もう何もない。
もう30過ぎた人間がそんな見苦しいことを言うのは、ただの阿呆なんです。
30過ぎて思春期やっているなんて酷いにもほどがあるしね。
本当に子供のことどうでもいいとか思っていたら無視しているだろうし、潰れるほど攻撃的なものを向けてくるもの。
血が繋がっているって、色々な映画にもあるけれど、どんな酷い家族であっても、妙なところで変な気分が浮かんでくるものなんです。
人は感情の生き物で、思考の生き物だから、わからんもんはわからん。
どんなに言葉で説明してもすっと入ってこずに何もかもはねつけてしまうことはある。
でも伝え合いの先に、ぶつかり合いの先に、傷ついてボロボロになった先に、何かふっと見えてくるものもある。
自分には責任はない。お前のせいだ。
そう考えてしまう時期だってあるでしょう。
でも人間どこかで丸くなるものなのです。
苦労していれば、ね。
私はろくでもない息子ですが、しかし誰も救ってくれないほどろくでなしではありません。
ろくでもない生き方をしていますが、しかし変化がないわけではありません。
長い年月をかけて、また少しずつ変わっていくのでしょう。
そんな悠長な暇などないのかもしれませんが、人物的な小物臭を払拭していきたい。
しかし騙ることはあるでしょう。
なぜなら語りをやっているのですから。
何かとご心配おかけいたしますが、私は死なないはず。
上手く生きていけるはずです。
道は変な風に外れてしまいましたが、笑いかけてくれる人はいます。
ありがとうございます。
何かと気にかけてくださって、本当にありがとうございます。
未来を潰さぬよう、頑張っていきます。
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