5月4日、初めて養父と対面することができた。
いつかは会えると思っていたけれど、時間はかかるだろうなと思っていた。
それが10年なのか、20年なのか、恐らくは体も弱ってだいぶ不自由になってからかもしれないと漠然と考えていた。
その頃までには覇気も衰え、思考も変わってくるだろうと思っていたからだ。
思っていたよりも、かなり早い形となった。
相方が北海道に来る前から会うことを拒否されていたし、僕は両親からの罵倒の対象だった。
一部彼女から伝えられてはいたけれど、かなり酷い言われようだった。
そもそも彼女はそういう家族の反対を押し切ってきただけでも凄いのに、当時最も大事だと思っていた「家族」を天秤にかけてきた。
大事だと思っている両親から「縁を切る」と言われていたのだ。
人間は人生で一番大事なものを捨てる覚悟を持つことは非常に難しいしそれができるだけでも圧倒的に普通の人間とは違う。
「家族の縁なんて、そう簡単に切れるものじゃないから大丈夫だよ」と慰めたものの、彼女は縁が切れると泣きながら覚悟していた。
その彼女の深い覚悟は恐れ入るものだった。
彼女は霊力の強い実の母親から28歳で死ぬと言われていたが、長生きしている。
正直その点だけでも彼女の運命には勝利していると考えている。
他の人間は自分が死のうがどうしようが関係なく時間が過ぎていく。
だけど彼女には自分が関与していかないとダメだろうと強く感じていた。
僕は彼女の運命を導いていると断言できるほど様々なきっかけを作っている。
いちいち例を挙げるときりがないけれど、例えば、北海道に移り住んできてから2つ精神的な事情で病院を変えたが、今いる病院へ入るきっかけを作った。
自分は北広島に来てから町内会の人たちを集めて小さな宴会をしていたけれど、その人たちの中に、ある病院のセンター長がいて「もし転職をお考えの際は紹介しますので、ぜひよろしくお願いします。お互い10万円入りますから」と冗談交じりに言っていたものの、結局はお言葉に甘えることになった。
今は精神的にはとても落ち着いていると言う。
もちろん自分も変えられた。
お盆に墓参りに言った時よく自分を覚えているおばあちゃんが寺にいて僕を見ると「よく笑うようになったねぇ」と言っていた。
それだけ笑わない人間だったのかもしれない。
短い旅もよくするようになった。
3日間で伊達から稚内へ行き北広島へ帰るという1100km程のプランなしの弾丸旅行、突然支笏湖に月を見に行こう、中山峠まで星を見に行こう、岩内町は夕日が綺麗そうだから行こう、襟裳岬は朝出れば夜までには帰れるから行こう等、1日500kmも走ったことがある。
おかげで助手席に座る自分は北海道のお酒や食べ物を知れるようになり、まったく知らなかった北海道を知ることができた。
今はだいぶ仲良しになったが一緒に暮らした1年ほどは酷い喧嘩ばかりしていて、互いの価値観の違いに戸惑っていた。
都道府県独特の価値観というものにもぶち当たった。
時間はかかったものの、価値観のすり合わせも少しずつできているし、行動パターンもお互いにわかるようになってきた。
何を考えているのかも、多少は。
今年に入って養父の食が細くなってきていると聞いていた。写真を見せてくれて「だいぶ細くなったけど」と。
連絡が来たのは彼女の誕生日の3月1日。
いよいよ本人の気力だけではどうにもならぬ事態が出て検査。
胃カメラと血液検査。
胃潰瘍で済んでいるといいが、胃癌だと思うとのこと。
彼女の知り合いに呼吸器内科医がいたため胃カメラ写真を見せると「胃癌の可能性が強いと思う」との回答。
看護師の経験的な勘が働いてもいた。
医師の横で写真レントゲン等見ていた経験もある。
信じたくはない気持ちが少しはあった。
でもダメかもしれないと悟った。
だから号泣していた。
義父は我慢強い人間で仕事も文句も言わずにこなしていたという。
朝は庭の畑、一軒家は建つくらいのスペースはあったが、その畑の世話をしていた。
自分がやるまでわからなかったが、とにかく畑仕事は雑草との戦いだ。
その髭を一本ずつ抜く作業をするようなことを毎日やっていたという。
そんな我慢強さと真面目さが裏目に出た。
お腹の不調は去年あたりからあったらしい。
つまり食が細くなってきたのを含めて周囲から見ても半年ほどは放置されていたかもしれないと心当たりを義母は吐露していた。
紹介状を書いてもらったが、紹介状の先で診断される。
「ステージ4の胃癌ですね」
その時治療方針で担当医と衝突。
霊媒師の仕事そのものの観点を義母が告げる。
それは義父との同意の事だった。
「抗がん剤治療はやらず、気功で治す。でも点滴とかはやって欲しい」
医者激怒。
「そんな都合のいいことはない!」
追い出されるようにして病院を後にする。
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