「どうして、そんな人のためにしようとするの。後のことは他人事でしょう」
「それは、自分の中にはどうしても、辛い時期に、本当に身近な人に助けてもらえなかったという意識がどこかにあって、それで、どうしても、砲っておけなくなって、してしまう。自分が本当に辛かったから、だから、自分だけは人の苦しみを背負って、少しでもなんとかしてあげたい」
それもまた、ある意味自分勝手な考えであることはよくわかります。
「他人事」
多くの人はそう割り切り、他者への干渉を控えます。
プライベートなことだから。
そして個人もプライベートへの干渉を酷く嫌います。
人は他人から何か言われた時「プライベートにまで干渉されている」と思います。
そして言う側も「プライベートにまで干渉している」ということに気がついていない場合があります。
しかし「自分視点」の人は、「他人への接し方」も「プライベートなこと」として一緒にして考えるため、「指摘」が非常に困難になります。
私正直言って「わかってやっている人」はいいと思っているのです。
自分が差し出す犠牲もわかっていて、どんな状態になるかもわかっている。
「覚悟」があって、最後までできるっていうのなら、やればいい。
生きるも死ぬも後はその人しだいなのだから。
でもたいていの人は「わかってやってない」です。
人の苦しみを背負おうとすることは楽なことじゃない。
辛いし、時としてなんの報いもなく、虚しい。
何度も何度も繰り返して「何故こんなことをしているのだ」と思う時もある。
「愛している」が、どうしてこんなにも都合のいい使われ方をするかっていうと、受け取る側が「自分にとって心地のいい『愛している』」だけを選び取っているからだ。
そして伝える側も、都合のいい「愛している」を繰り返す。
その「愛している」は、「あなたの痛みも背負います」ではなく、「私にとって心地よいです」の感じのほうが強い。
このように、一見相手のことを考えているようで、自分のことが中心であることが多い。
でも人生は、自分自身のものだからと、そこから視点が自分よりになるのは当たり前のことだが、しかし私たちは一人で成り立っているわけじゃない。
どんな想いだって、たった一人で成り立つ想いなんて、この世界にひとつもないのに。
「他人がいるから想いがある」
そんな当たり前のことすら、忘れてしまいそうになる。
過去の想いも今抱けるのは、今接している人がいるからでしょう。
誰もいなかったら、過去の思い出なんて必要ないのに。
誰もいなかったら、「生存本能」さえあればいい。
今日を生き延びることだけで、思い出にしがみつく暇もない。
人と接しているのに、自分の思いだけに留まろうとする。
どうして私たちは「壁」を作っていくのだろう。
互いにもろいからこそ、「壁」ができるのだろうけれど、互いにもろいからこそ、弱さを考えあわなきゃいけないんじゃないのか。
それは「押し付け」ではなく、「思いやり」として。
受け取るほうも「押し付け」としてではなく、「思いやり」として。
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