前にも書いたかもしれないけれど、ここに日記をずっと書いている理由は、思ったことを書き留めるためである。
どうして思ったことを書き留めるかというと、漠然と思っていたことを整理する理由もあるし、その時しか感じていないことを封じ込めておくという理由もある。
感情は生ものであって、一ヶ月前の自分がその時何を感じていたかを詳細に思い出せる人間はまずいない。
普通の人間はそうやって忘れて、日々生活していくうえで役に立つものしかブラッシュアップして残さない。
私は自分の愚かさを否定しないし、無様な自分を書き残して、それを公開し「ああ、こいつは馬鹿だとか」「信用できない」「どうしようもないやつ」とか、そういう生の反応を見ていくことに、ひとつのリアリティを感じている。
「そういうの自分のノートに書き留めれば?」とあるが、前述のように生の感覚をさらけ出して生の反応を見る目的の他に、ずぼらなので、ノートなどに書くと必ずそのノートを紛失してしまうので、一人の人間の歩みとして残している。
例えば何かを知り、そして知らなかった頃の自分を忘れ、いずれは知らない何者かを「こいつダメだ」と見下すような日が来るかもしれない。
そんな自分もまた愚かであり、そしてそんな自分は失ってしまったものに「価値」を見出さなくなってしまったのかもしれない。
もし書き留めておけば、周囲の反応も含めて、それが正しかったのか、間違いだったのか、充分分かる。
自分が正しいと思っていたことは本当に正しいのか。
自分の中で間違いがあったとしたら、それは何なのか。
周囲にその間違いを的確に指摘するような人がいたのか。
そんなもろもろのことがわかってくる。
世の中には、自分をよく見せるために、他人を勇気付けるために、優しい嘘を積み重ねていく人たちがいる。
私は人間が美化できないことも、逆に蔑むことができないことも、両方少しずつ理解してきている。
それはよい意味で泥臭い人間が、本当に人間臭くて、私は大人の嘘があまり好きではなく、いつも「二の句」を継げたそうな目に脅えていて、そんな嘘まみれな心を見るたびに、人が必ず持っている狡猾さや、世の中にあふれている「希望」という名の虚飾や、真実を告げないことで嘘も希望になるという現実や、多くの人間がその「希望」や「夢」や「友情」や「誠意」や「正義」を独自解釈して他者に押し付けていくという状態に、面白みと悲しみと失望と興味を抱きながら、人間が各々の関係の中で善悪の心理の表裏を状況によりひっくり返しながら影響しあっていることを少しずつ理解しているということだ。
自分のやり方が、決して理解を得られるようなものではないということはわかっている。
どす黒い感情をさらけ出す人間や、少し世間ずれしたような感覚の人間を、通常は信用するに値しないと見なす。
それは、ごく普通の感覚だろうとは思う。
しかし、もし私が生身の感覚を否定したり、取り繕ったりするようになったら、小説家として終わると感じている。
多くの人間の存在や意見に惑わされ、自分が持っているものさえ見失いかけていた時があるだけに、ああいった、ただ意志も持たずに流され、結局何を成すにも他人の言葉が思い浮かび、時間を何年も消費するという、創造性の欠片もない死んだ自分を再度体験するのは、もう真っ平ごめんなのだ。
よく考えてみれば、20代の活発に動くべき時期を、ほとんど死んだように過ごしたということは、ある意味これからのことを考えるに、本当によかったのかもしれない。
これが逆だったら、もし30過ぎて体験していたら、自分の人生そのものが終わっていた可能性もある。
これから周囲の声はますます高まっていく。
あらゆる価値観が私に叩きつけられ、時として唾を吐かれ、罵倒されていくだろう。
倒錯した心理に出会い、昔の自分のような踏み込みの甘い考えを「よく考えている」と信じているような、未熟なものに数多く出会っていくだろう。
「必死に生きている」ということを自らの免罪符にし、他者をこき下ろしたり、知識の豊富さを背景に、教養のなさを冷めた目で見たり、体験していない視野の狭さを、まるで世界の真実かのように言ったり、他者との感覚の違いを理解できず、感覚が共有できないのはおかしいことだと怒り狂ったり、様々な人たちに出会っていくことだろう。
楽しみだね。
私の精神がどこまで持つかも見ものだけれど、世界にどれだけ通用するかも楽しみだ。
私はドアをノックし続ける。
私はドアを開こうと試み続ける。
日記を書くことは、私の愚かさの証明であっても、まったくかまわない。
私は自分を美化するつもりはない。
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