「末路」と呼ぶには難があるかもしれない。
ただ、ネット上で少し知り合った程度で、その人の消息を知る術がもうなくなってしまったというだけの話かもしれない。
とある漫画家がいた。
文章も独特。
古風で弁当箱にぎっしりと定番のおかずとご飯が詰め込まれているような窮屈な文章。
海外で賞を取っているらしく、絵も一風劇画のようで、色使いが艶やかで斬新。
イラストそのものは時折、少々難いところもある不思議な感じだった。
下手なのかうまいのか、私には判別しかねた。
岩波新書のとある本の中にイラストも描いたということだから、出版社とも繋がりがなかったわけではないのだろう。
最近ふと名前だけ思い出し検索するとブログが去年で途切れていた。
年は生きていたら50を過ぎている。
鍼灸師の仕事もできるそうだから、手に職がついているはずだった。
しかし最後になるにつれて生活は極貧、家でネットができる環境がないのか他の場所からアクセス、売る本がなくなった、仕事もない、もう何もない、もうすぐ死ぬだろう、誰か助けてくれ、と英語で書かれていた。
途中には紙の出版は「売れない」ということから取り合ってくれないと書いてあった。
鍼灸の仕事は体力が続かず人と話すのも神経的に磨り減るらしく辞めていた。
漫画に没頭しても売れない。
海外の人から声をかけられても日本人のほとんどはこの人を知らない。
私はこの人の様子をブログで読みながら、多くの芸術家が辿るであろう末路を見ていた。
芸一本で食っていく。
その難しさ。
年をとるごとに感性が磨かれていくという保証はどこにもない。
花が咲いたとしても、永遠に咲き乱れる花はなく、咲いた限りはどこかで散り、そして散った限りは、新しく咲かせなければいけない。
同じ植物から咲いた花でも、それはもう同じ花ではない。
芸術家の宿命とは、例え咲いたとしても、咲かせた花は散っていくということ。
この分野に携わる人間は、このことを覚悟しておかなければいけない。
仕事もなく、ホームレスとなり、無一文で最後は外か、部屋かで孤独死。
ありえない状況ではまったくない。
その年にたとえミリオンセラーを飛ばしたとしても、次の年にはどうなるかわからない。
華のある職業は、それだけリスクが高いということだ。
とてもじゃないが、まともな神経ではやっていられないだろう。
好きでなくちゃいけない。
飽きずにできる行動力、興味を尽かさず持ち続けなければならない。
ちょっとやそっと罵倒されても続けられるような根気がなくてはいけない。
「実力」を磨いていき、常に時間の進み具合とともに己の技術を更新し続けなければいけない。
立ち止まることは許されない。
さもなければたちまち他人をダシに使うようになる。
そうなったらチンピラよりたちが悪い。
人間としてはクズに成り下がる。
そうなったら転落は早くどこまでも落ちていく。
恥も外聞もなく、生き延びるためにどんなことでもやるようになるだろう。
生活に困窮すれば、人間の心理なんぞどう変化するかわからないものなのだ。
芸の分野に携わる人間は常に危うい。
文字通り人生そのものを博打のように賭けていかなければ、到底成せるものではない。
だからまともな考えの人は「保険」をつける。
二足のわらじで、最低限生きていけるよう仕事をして、片手間で余裕を作っては芸に打ち込んでいく。
孤独死をしてもいいか、誰にも認められなくとも続けていける自信があるか、それを捨てたら人生の楽しみの半分以上を失われ生気がなくなるか。
最低の事ばかり考えてもしょうがないが、一度でも考えて、自分に問うて、そして覚悟しなければいけない。
「大丈夫」なんて言っているのは自分だけで周囲は何一つ補償してくれない。
時代は常に進む。
先見性がないと時代に取り残され、追うだけで精一杯になる。
華のある世界は、それだけ危うい。
芸の世界に入れば何者かから保証されることはない。
自分が自らの実力を補償し続けなければいけない。
それが「芸」の世界だ。
だからこそ、自分にも他人にも言える。
「夢を追う者よ。命の重みを背負えるか」と。
[3回]
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