既に半世紀の未来は3月11日に決定した。
後は今脱原発なの原発推進なの、様々な角度から検証しようと結局10年20年先には脱原発になる。
それはもう歴史が証明したことだし、たとえば一世代まるまる賠償し続ける膨大な予算もつけられなくなりベラルーシは補助金を打ち切っている。
結局しわ寄せは最後に国民に来る。
それまでにいかに「経済」というやつを活発化させて「金を確保しておくか」を考えるのだろうが、今までの経済の価値感覚で社会を創造していくと当然矛盾を抱える。
つまり今までの通り何かを犠牲にしてその歪を必死に隠しながら社会を推し進めるか、今までの社会の犠牲者を捨てて新しい社会へとシフトするか、ということになり、経済市場主義では社会転換できず、社会転換しても過去の犠牲者を守ることができない、ということになるのですな。
これからは、今年起こってようやく未来に出てきた「被害」を目の当たりにして人間の感情として「もうこれ以上はこういう人たちは絶対に出さない」という意識に傾くのは当然で、その意識は半世紀は続くだろうけれど、そこから先はわからない。
新しい技術次第だけれど、その「新技術」に対しての金がどれだけ割かれるかに未来の行く末はかかっているような気がする。
当然こんな風に社会(都市の利便性を追求し、個人の欲望を節操なく追求する社会)を作り上げていったら、都市化の中で個々人が分断されコミュニティーも細分化されていくのだから、よほど地域で気をつけて「ふれあいの関係」を熱心に創造していかないと、一世紀後には元に戻る可能性だってある。
しかし飽食・強欲の時代なんて長くは続かなかったし、日本人の人口は少なくなっても世界の人口は増えるから食糧難となり、自前で食糧自給をしていく必要性に迫られることから、やはり「自然」に反する技術は特化したモデル都市で行われる、ということも考えられる。
逆に数字に固執ばかりしていたら移民を入れるなの、労働力を外国からとか、おかしなことを考え始めるだろうけれど。
科学だって、これからは生活にもっと密着していかなければならないだろうし、国民だって新しい技術の情報をたくさん経て、どこにお金を投資しようかと考える社会が必然的になるのではないかなと想像する。
もし今のまま社会体制がシビリアンコントロールを目的とし、搾取社会、統制的な社会を維持しようとし、国民が新聞では報道されない重要な法案に気がつかず、中央の巨大帝国ネットワークを崩すことができなければ、日本という国家は技術革新とともに徐々に顕著な統制社会となっていくに違いないと考えている。
国民はどうするべきかというと、自立が必要になってくる。
この「自立」というのは「経済的に」という意味合いではなく「精神的に」となる。
精神的に自立するということは、よく考え、よく聴き、よく尊重しあう、という理念が必要になる。
よく考えることは、他人の言葉を鵜呑みにせずに自主的に賢くなることであり、よく聴くということは、他人の言葉にむやみやたらに自らの主張を押し付けないということであり、よく尊重しあうということは、誰かを大事に思い助け合うということに繋がっていく。
これらのことは決して不可能な話ではない。
人を育てるのは「土」である、という古来の考え方に戻るということだ。
その上で歴史も再考されるのではないかなとも思っている。
自分で意志を持つということは、なかなか辛いことだし、賢くなるというのも簡単にはできない。
本来「痛み」というのは前進・一時停滞にのみされるべきであり、後退に痛みを伴ってはいけない。
各々の価値基準の中に厳密に当てはめ「それは後退だ」「これは前進だ」と喧々囂々と議論していくだろうが、どの範囲で物事を主張し、どの範囲を括っていないのかを厳密に見極めないと、社会はいつでも道を誤るだろうと考えている。
その「範囲の見極め」ができるようにならないと、いわゆる「偉い存在」にいつまでたっても騙されるだけだ。
将来原発に代わる別の危険なエネルギーだって出現する可能性があるのだからね。
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