今でも歪んでいるけれど、今だからこそ「昔の自分は相当歪んでいたな」ということがわかるわけで、その最中にいた頃は周囲は自分のことを理解していないと思っていたし、説教されようものなら憎しみに近い感情を持って「何も理解してないくせに何を言ってる」と心の底から敵意を向けていたものだった。
それはだんだんと、その手のパターンが多くなると条件反射のごとく出てきて、何の考えもなく、ただ「そういうことを言う人間は皆有害」と思い込んでいた。
実際、その時はそのようにしなければ自分の心は守れなかったし、押し付けてくる時点で「ちゃんとした大人は押し付けてこない」と考えていた。
価値観が違うと問題の焦点を合わせづらい。
あちらは隣接しているものをさらってくるけど、こちらは真ん中だけを言いたい、という例は世の中にごまんと溢れている。
「常識」と押し付けて、周囲もそうだと確認して、じゃあ相手もそうするべき、そうしないのはふざけてると、この手の問題もよく見るし自分も直面するが、そこで見失いがちなのは「自分の常識を守らせることは常識的感覚なのか」というロジックとしてはおかしいけれど実際の人間との付き合いにおいて重要な問題が発生する。
つまりは過去の自分が相手のように、ただ憎しみだけを煽っておしまいということにもなりかねない。
人は残念ながら本音では付き合えない。常には言いたいことを言ってはいけないのだ。
他人から言葉も素直に違う他者に伝えてはいけない時が多い。
ここだけの愚痴が「あの人こんなこと言ってたんだよ」と横流しにしたら残念ながら一人以上の友達は確実に失う。たぶん、考えているよりももっと多くのものを失っている。
どうしてだろう。人はもっと本音で付き合えないのか。じゃあ、建前だけでいいのか。
いやいや、そういう問題ではない。
「その場限りのこと」にしておくことだって大事な配慮じゃないか。思っているけど心の中だけに留めて置く事も大事だ。
「言った事や思っていることは事実なのに何故伝えてはいけないのか」となると、もう怖くて付き合えない。
その人には何一切大事な事は伝わらないようになるだろう。
河合隼雄が書いた本の中に「うそは常備薬、真実は劇薬」という言葉がある。
今ならその言葉がよくわかるし、昔の自分のように堪えきれずに周囲を敵視し、条件反射的に自分を押し付け他人をシャットアウトする行為は、ただ子供でしかないのだとわかった。
昔の自分は耐え切れずに色々な事を素直に出していた。
どんなに信じきっている人でも、おかしなことはあるし、どんなに間違っているように見えても理があることもある。
うそだけ言っていればいいという問題でもない。
人と人は違いがあって当たり前だから、何かを押し付けた時点から障害は生まれてくる。
その障害をクリアできるのが「分別」というやつなんじゃないかなと思っている。
ただこの「分別」、そう簡単には身についてこないし、一生ないに等しい状態で身につけていかないといけないところが厄介だ。
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