今回初めて長編ボイスドラマを製作しているのですが、特に自分がシナリオ書いたものだとよくわかってくることがあります。
今回指示したのはキャラクターの性格よりも、場面の説明でした。
今みんなで映像見てます。
流れる映像の指摘をしているのでセリフは早めに。
仕事の部分のセリフとそうじゃない部分のセリフのメリハリがないです。
ここ、もっと茶化すような言い方の方がいいですね。
このセリフ、声張り上げてしまったら相手になすりつけることになりませんか?
みんな沈んでいるので、その空気を感じて欲しい。
なんて指示していると、ふと気がつくことがありました。
小説もそうなのですが、何を一生懸命やっているかって、相手の気持ちを懸命に考えること、だったんですね。
そして誰かに伝える「伝達」の部分で初めて「技術」が必要になる。
その前の「心の中の作業」というものがしっかりできていないと、つまりイメージングがハッキリ出来ていないといくらでもぶれてくる。
迷って結局ダメになっていく。
どこか、今まで「自分がやる」という意識が強かった。
自分がやっているんだ、とか、自分の技術がうんぬん、とか、自分が作ったものがうんぬん、とか。
でも、今回人に指示をしたことによって自分で得るものが大きかった。
「自分がやる」というのは心の中の段階をきちんとしてからじゃないといけない。
誰かの気持ちを懸命に考えて、それを自分の中に落とし込んで技術で伝達するのも芸事の一種。
で、この「人の気持ち」がわからなければぶれるに決まってる。
よく考えれば仕事の基本って、だいたいこの「人の気持ち」ってやつに集約されていて、「よい仕事」ってだいたい「人の心を捉える」ことだったりする。
自分がこのレベルで物事を再現したいからって、それが通ることはまずないし、その前にそれができるなら自らが一級品じゃないといけない。
自分が一級品だからと言って、相手のレベルがそこまでかといったらそうじゃないし、感性だって考え方だって、経験だって違う。
その「差」というものをきちんと見つめながら、一緒に作り上げていくという楽しさと、互いに足りないもの、長所を持ち寄り、短所を指摘しあいながら、徐々にレベルアップしていくという楽しさを学びました。
今まで意識しなかった「創作」における、「他者の意識」が混じった時に出てくる、新しい領域を体験しましたよ。
それは自分だけの意識じゃない混ざり合いで生まれてくる、「総合力における創作」でした。
自分の意思を通すのは簡単。
自分の想像通りにやっていくのもある程度できる。
でも、自分が思ってもみなかったところで、面白くしていくのは、自分自分しているよりも、他人の気持ちや考え方に寄り添いながら、進めていくことが必要なのだなと感じました。
自分も弱い。
意志がすぐ曲がる。
精神もすぐヘナヘナになる。
でも、これは本当に楽しい。
苦しんででもやるべき場所なのだなと、ようやく人を巻き込んだ創作の領域で、苦しみと同じような楽しさを見つけることが出来ましたよ。
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