今よりも、もっと愚かだった若い頃、今よりも、もっと鈍く視野が狭かった。
感性だけが強く、周囲の世界を察知していた。
そしてそれに合う言葉を捜し、身体感覚と合致させ、そしてあたかも自分は「このことを経験したのだ!」と錯覚していた。
小説を書いた。
私の書いたものを理解してくれないと悩んだ。
それは私の作品が悪いのではなく、相手が理解しないせいだと思うこともあった。
私は人と話した。
人とのずれを感じた。
分かり合えないと感じたこともたくさんあった。
それでもたった一つの救いは、ほんの少しでも誰かの力になれたらと、これも当時としては独善的な感情で人に寄り添っていた。
そのうち気がついた。
自分が知り、知識を得、そしてわかっていたつもりのすべてが、愚かな過ちであったことを。
私はもっと過去、今より10年近く前の文章を恥ずかしくて見れない。
今10年前の私がいたら、心底説教をし、何一つ理解していない思い上がった馬鹿野郎だと、罵倒するだろう。
どうしてそこまで人を無視できるんだと。
当時の私はこう思うだろう。
俺は俺のやり方でちゃんと人と寄り添ってる。
力にもなろうとしている。
お前みたいに何も知らないやつに言われたくはない。
そんなことが言えるのも、無知で視野が開けていなかったせいだろう。
借り物の言葉で、借り物の錯覚で、それを自分のことだと思い込んでいた恥ずかしさは今思い返せば死にたくなるほどだ。
自分の行動や言動を独善的に肯定していた。
その独善性が人に嫌われているにもかかわらず、自己満足に浸って独善的な価値観を高めていっていた。
周囲の理解が得られず、悩んだ。
どうしてだかわからなかった。
自分と向き合うことなく、等身大の自分を理解する前に、本当の現実から逃げた。
今なら少しだけ、現実というものがわかる。
私は書くという行為を通じて、同時に「伝える」ということを知っていった。
私は書こうという欲求を通じて、同時に人の思いを知っていった。
自分が物事を頭の中で固める前に、じっと人の思いを待つことに専念した。
たいてい、喧嘩になったのは「~は~だから」というような決め付けで物事を見た時だった。
今ならよくわかる。
人は馬鹿じゃない。
自分で原理くらいは薄々わかっている。
だからたとえそれが真実だと指摘されても、どうしようもない場合だってあるんだ。
だからお前はその言葉で人を傷つけているのが一切わからない勘違い野郎なんだと。
当然、少しずつ孤立していった。
当たり前の話だ。
でも、当時はそれがどうしてなのかわからなかった。
自分は正しいことを言っているのに、あいつが気がついてないだけだと思っていた。
本当に、本当に愚かだった。
人と寄り添い、その思いをじっと聞き、どうしたらこの人の言葉や感覚に近い形でアドバイスしてあげられるだろうと、精神力に余裕のある時、人の相談に乗っていた。
「伝える」ということが少しだけわかった。
それは同じ性質を指している言葉でも、解釈の仕方ひとつで、すべてが壊れてしまうことを。
それだけ、相手の感情は自分が思っているよりも繊細にできている。
その中でたくさんの過ちを犯した。
恨んでいる人も多いことだろう。
愛情も、憎しみも、悲しみも、人の失敗も、独善的な錯覚も、体験もしたし、見てきた。
孔子の論語に有名な言葉がある。
「学びて思わざれ ば則ち罔し、思いて学ばざれば則ち殆し。」
学んで考えなければ学びとして開けてこないし、考えて学ばなければ独善的になって間違いを犯す。
このことを、すっと読んで「わかった」のなら、たぶん私と同じ過ちを犯す可能性がある。
まず、学ぶことが生半可ではいけない。
学ぶは真似る。
人のことであれば人の思いを正確に把握するように努める。
自然のことであれば自然の力の流れを妨げないようにするにはどうすればいいのか知る。
この学びさえもできないようで習得した気になり、思索に励めば既に過ちが待っている。
体感し、感じ、わかった気になり、他人の意見にも想いにも思想にも、謙虚に聞いているようで独りよがりな態度を押し付ける。
そんなことができるのは、何一つ理解していないし、自分がまったく見えていないからなんだ。
そして人にとって一番大事な学びは本の中だけにあるわけではない。
人の中にある。
本を読んで人を無視するようでは知識が毒にしかなっていないし、独善性が強ければ自分の言葉や知識で人を傷つけていることすら理解できない。
そういう盲目的な視野を持つことは、私なりの表現で言えば「死に絶えている」。
そのような人間に「生きている」友達や人間が寄り添ってくるはずがなかった。
当時の私は文字通り死んでいた。
生きてはいなかったんだ。
これも自己弁護ではあるが、昔よりはほんの少しだけ成長した自分に、かすかな贖罪を感じるのだ。
[2回]
PR