「現代人」
http://p.booklog.jp/book/6538生い立ちの情報や本人供述が少ないことから推測でしか成り立たないけれど、最近この手の「鬱憤」を持った人間が起こす事件が多いと思う。
実際には臆病で前へと出られない人間が溜めに溜めて一気に爆発させるというケースだ。
例えて言うのなら密閉された容器の中にどす黒い水を注ぎ込んでいって、最後には注ぎきれなくなり容器が壊れてしまうという状態。
「人生を、終わらせたかった」という供述などしているという。
何か、物凄く思い当たる節があり、こうして書こうと思うのだが、結局「新・人間失格」やこの「現代人」にも書いていることは「本人が認識できていない暴力性やフラストレーションの表出の仕方」だ。
私はずっとこのことを感じながら小説に書いているわけだけれど、本人以外は認めたくもないことだけれど、本人そのものの存在価値が認められない、または認められることへの本人意識と周囲認識のギャップや矛盾によって、本人の結論として無意識が「暴力を受けている(阻害されている)」というフラストレーションを溜めていくために、死にたいのではなく「消えたい」と思ったり、溜まったフラストレーションが発散されないことによって内面的な暴力性が高まってくるということはあると考えている。
かく言う私もふっと無気力になったり通行人・身内に対してひどく暴力的な衝動を持ったりすることを認識したりする。
人間は自分だけの意識ではどうにも自分の心を律しきれない。
あらゆる影響を受けながら「自分はここにいても良いのだ」という認識を確認しながら生きていっているのではないかと考えている。
その一種の「存在確認の積み上げ」がどこかかしこで崩されたり崩れていったりすると「どうして自分はここにいなければいけないのだろう」という無意識の疑問や不信がやがて意識レベルにまで表出してくる、というのが私の考え方だ。
人間は自己存在確認をしながら未来に対して希望を持っていくことで、人生というものを開けさせているのではないかと。
この手の犯罪は簡単に言うところの「認められないことへの反逆」だが、今の日本の社会ではこの手の感情は「甘え」や「本人努力が足りない」など、あらゆる意味を含めて「本人能力の欠如」を指摘するに留まる。
そして第二・第三の事件が起きても「また自分勝手で努力もしない人間が犯罪を起こした」としか認識されず、堂々巡りの状態を何度も繰り返している。
結局社会そのものが、この手の人間を無視という暴力性によって片付けているという側面がある。
だからこそ相手が「特定の誰か」ではなく「社会」という「不特定多数」なのではないかと考える。
「社会」というあるようで厳密には特定できないようなあいまいな空気に対してどうしようもなくなってしまう。
私はいつも小説を書くときに「個人の認識の範囲」を意識する。
この手の人間がどのように周囲の「世界」を見ているのか。
それは今までの経験・思想にもよるし教養の量にもよるし想像性・感性の高さにもよるし、それらのものを受け取る心の器はどれほどなのかと考える。
だからこそ個人個人が感じている「世界」というものは違うのだが、特に日本人はこの世界観が「一緒なのだ」と思い込んでいるのではないだろうか。
そして他人との世界観のずれというのを極端に恐れ、互いの世界観を隠して表面上で合わせたり、本音で交換し合うことは稀だ。
大人の社会に出れば余計にそうなると思う。
思想の上では日本人は多様性を認めているようで画一化の方向へと向かっている。
保守的なのである。
日本の年間自殺者数は未だに3万人を切らない。
そしてこの数字は「統計上」で算出される数字であり当然統計という基準から漏れている多くの人たちがいる。
実際にはこの数字よりも多いのだ。
統計だけでも出ている数字で40歳代までの自殺者は年間1万人を越えている。
単純には換算できないが、これが労働者、何らかの生産行為を行っていたとしたら、毎年働き盛りの人間をこれだけ失っていることになる。
特に日本人は「日本がダメだったら海外に行こう」とか「労働がないなら自分で作り出そう」なんていう発想はなかなか浮かばない、もしくは発想が実現しづらい社会環境があるから精神的に追い込まれる。
それも、保守的ゆえだ。
なにせ20歳から40歳までの死因の第一位が自殺という国なのだから、そろそろ自分たちの異常な状態に気がついても良いのだと思うのだが、未だに余裕が生まれない。
次は我が身かもしれないという危機感もあるのではないだろうか。
それに他人にまで悠長に手が回せるほど現代人には余裕がない。
自殺の話になったが、自殺も他人に対する傷害も同じ「暴力」だと考えている。
破壊衝動の究極的な行き着く先だ。
つまり自分も含めた「人間」という存在に対するありがたみや価値を軽んじている(重く認識するまで積み上げられていない)から、暴力的な衝動を実行段階にまで上らせてしまうのではないのか、と思うことがあるのだ。
今回は殺意を否認しているらしいので、まだフラストレーションとしては弱かったのかもしれない。
日本社会では「社会に馴染めない人間を否定」するという方法で社会に所属できる可能性のある人間を「処理」していっている。
これは現代日本の社会システムを維持させるための日本人なりの合理性なのだと思うこともある。
命すら現在の社会を維持させるための「必要経費」であり「物」なのだ。
「人材」と言う「物」である。
だからこの手の犯罪が起きても「排除」するだけで「処理済」としか片付けられない。
会社でも使えない。
社会にすら馴染めない。
使えない人材は破棄する。
それだけだ。
その手の行為を繰り返している。
何故繰り返すのか、と思うところがある。
自分なりには個人レベルでのフラストレーションの爆発に至るまでの形成過程はなんとなく見えている。
じゃあ、もっと大きなレベルで、何故個人が、社会思想が、個人を追い込むのか。
それは私の直感としてこの国の金の流れを完全に洗い出せれば浮き彫りになるのではないかと思っている。
金には常に「思念」が宿る。
どのような使われ方をされるかで、金の価値や社会が変わっていく。
最後になるが私たちができることは他人に対する思いやりを忘れないことである。
せせこましく他人に接すれば、それだけ社会が悪化するのだ。
私たちは社会で「金銭」以外にも「心の通貨」を持っていることを忘れてはいけない。
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