少ない労力でなるべく大きな獲物を獲ようと考えるタイプで、たいしたこともないのに大きなものが得られ、きっと自分は躍進していけるのだと信じていた部分があった。
しかしそれは夢であり願望であり妄想だった。
打ちのめされ、痛烈に後頭部を打たれ、さらに惨めな気分も味わった。
色々過去の作品に固執して、自分が作ったものはいいものに違いないと信じてきた。
だがそれもどうでもよくなってきた。
作った後、そこに命を吹き込んでいくのは作品に触れていった人たちなのだと気がついた。
いつまでも一人で作品に固執してはいけない。
必要な時、必要なものを出せるという用意をしていかなくてはいけない。
多種多様な球を投げられて、いかにバッターの弱いコースで討ち取っていくか。
それは一種や二種の球筋ではいけない。
相手を翻弄しながら、最後には「やられたな」と思わせるような球を投げなければならないピッチャーの役割が作者なのだ。
だから今までの自分のものは放出していくことにした。
まだいくつか過去に書いたやつを持っていて、それがいつか役に立たないかと手元に置いて、放っておいたが、やはり待てどもよいアイディアが浮かんでくるわけではないし、望んだ環境が手に入ったわけでもなかった。
何もかも足りなくて、まだ10分の1も達成してなくて、以前環境は厳しいままだ。
そのような状況下にある作品たち、評価もされていない作品たちを手元にとどめておいたって、誰かの家の中にある日記帳ぐらい他人にとって価値のないものだ。
いくら持っていても役に立たないものは立たない。
いくらいいと思っていてもそれが誰かの心に届かないうちはもともとの作品のポテンシャルが低いのだ。
ポテンシャルの低い作品はいくら並べ立ててよいものですと声高に叫んでも他人はいいものですねだなんて言ってくれない。
そんなこと言ってくれるのは身内や親しい人だけ。
作品と読者はパズルのように組み合わさっていくもの。
合わない人は合わないし合う人は合う。
こればっかりは強制できないし作った本人にも「これはあなたにぴったりなんじゃないか」なんてなかなか言えない。
オーダーメイドで作ってすら微妙なところなのに、ましてや最初から特定の一人を目指していない、「漠然とした不特定多数のあるひとくくりの部分」を狙っているのだから余計に相手に合うかどうかは運任せと言っていい。
しかしその運の部分を押し上げることはできる。
作品をとにかく晒し続けるということだ。
もし空気に触れて劣化し朽ちてしまうものならば、それは本当はたいしたことがないのだろうと思う。
私は本当にたいしたことのないところにいたと思う。
そしてたいしたことのない作品に固執し続け、未来を作るということを忘れていた。
作品を作るのはとても大変なことで精神力を使う。
微妙なところで揺れ動いて、別のイメージや感情に惑わされ、日を無駄に費やすこともあるだけに、新しくよいものができるかどうか不安だった。
だが心配し不安になるあまり、逆にあれこれと「こうしたらいいのではないか、うけるのではないか」と考えすぎて壁を作り、ダメな方へダメな方へと墓穴を掘り続けていた。
練習でもなんでもいい、とにかく階段を作るのだ。
塵となってもよい。
次の作品の大きな手がかりになるヒントを見つけていくのだ。
そのためには量を書かなければいけない。
いきなりポンと質で勝負できるような天才ではないのだ。
だからこそ道を作っていかなければいけない。
今少しだけ「離」という状態になれそうな気がしている。
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