07/14
Sat
2007
「NOIR(ノアール)」
寂しげな背中を向けるよりも、男は少しだけ強がった背中を向けた。「死ね」と大声で叫ぶ女の捨て台詞が男の背中に叩きつけられていた。男にはもう時間の感覚はなく、夜の雑多で混沌として、どこに行くかもわからないような混沌の流れに身を任せながら夜の街を歩いていた。
繁華街に並ぶ飲み屋はどこも似たように見えて、そこに集う人間もまるでマネキン人形のような、ショウウィンドウの中での出来事でしかなく、たった今女を捨ててきた男の寂しさだけが男の世界の中心だった。
年配の酔客が数人わいわいと騒いでいるのが気になり目を向けると、バーテンの写真が入って顔を入れられる穴が開いたパネルが置いてあり、そこに男の酔っ払いが顔を突っ込んで女たちに写真を取られていた。
もしあのパネルがどこかのバーテンではなく、どこかの大女優や大俳優だったとしても遊び半分で顔を突っ込むのだろうか。何にもなれない俺にはできないと思い、男はとぼとぼと歩きながら過ぎ去ろうとした。
バーの名前は「NOIR(ノアール)」で、意味はフランス語で黒だ。何があっても、真っ黒になることも、真っ白になることもない心を持って人は生きる。それでもどこかで何色かになりたい衝動や願望を持ちながら外見を装う。今は心に装いができるほどの余裕がなく、何も考えずに飲みたい気分だった。外に、顔が抜けた特大バーテンパネルをメニュー入りで載せるユーモアが気に入って、入ってみた。
店の中は黒を基調にしたモダンな店だった。カウンターの椅子と酒瓶を置いた棚以外はほとんど黒だ。カウンターには二人の客。一期一会にもならない、都会の他人。男一人、女一人が離れて座っている。カウンターの赤の椅子に座り、「いらっしゃいませ」と言った、めがねをかけた坊主頭のバーテンにウォッカのズブロッカを頼む。奥にももう一人金髪のバーテンがいて、二人の客の相手をしていた。
酒瓶の並び方から、慣れた感じがした。慣れてないと、酒瓶の並び方が雑多になる。客層や出る酒もだいたい決まっているのだろう。目の前にロックのズブロッカが出される。溶け出す氷をカラリと鳴らし、グラスを傾けながら、肌に染み付いたぬくもりが剥がれ落ちていく恐怖にも似た寒気を感じながら、酒を口に含むと、ズブロッカの桜餅のような芳香が鼻腔に広がる。
「お仕事帰りですか?」
そう聞く坊主のバーテンに男は答えた。
「ふられてきたよ」
「え?」と一瞬目をパチリと大きく開けて驚いた顔をしたバーテンをよそに男は手に持ったグラスを見つめながら自嘲的にふっと笑った。
「女がいて、飽き飽きしていたと思っていたけれど、いざ別れると、一緒に共有していたものがたくさんあったということに気がついたよ」
染み付いた肌のぬくもりや感覚を失うことが、拠り所を失った凍える心のように震えていた。ひとつひとつの肌の感触までが思い出される。いつもは思い起こさないことを、どうして失ってから敏感にまで思い起こすのか、不思議に思いながら、戸惑ったような顔になったバーテンの目を覗き込みながら考えていた。
「僕もこの前ふられちゃいましたよ。一ヶ月くらいで。めんどくさくなっちゃって」
ニヤっと明るい笑顔を向けるバーテンの瞳は思ったよりも深かった。色々と人間のことを深く受け止めていくと人の瞳は深くなる。男は「そうか」と答えて、また酒を口に含んだ。
世の多くの人たちの恋愛観は、純愛を夢見つつ、相思相愛が永遠に続くことを願っているのだろうか。しかし、一方現実では、いろんなわがままや許せないことに振り回されて擦り切れていくのだろうか。雑誌や本では、いかに自己欲を満たして、それを正当なものとして通すかが公然と語られる。男は自分の今やってきたことと、女の涙目の恨みのこもったような目を思い出しながら、一気に杯を空ける。
酔いと共に思いは廻る。感傷というものなのだろうか。馬鹿らしいと思いながらも様々なことを思い起こす。バーテンに何か言いたかったような気もしたが、それもだんだんと話さなくてもいいと思うようになってきた。空になったグラスを見てバーテンは言う。
「他のものも飲みますか?」
「いや、これ一杯でいいよ。悪酔いしそうだから」
(とっかえひっかえ他のものを流し込んでも、きっと何も見えてこないさ)
男は心の中でそうつぶやいて金を置いて寂しげな瞳で出て行った。
バーテンは夜の闇の中に消えていく男の背中を「ありがとうございました」と言い見送った。溶け出した氷が水となってグラスの底にたまっていた。カウンターの赤い椅子には、新しい客が座り、違う酒が出されるだろう。
外に出た男は店のパネルを振り返ってみた。店には少しずつそこに集う人間の息づかいが染み込んでいく。相手をしてくれたバーテンの奥深い瞳を思い起こしながらきらびやかなネオンの星に消えていく。夜空の星も見えない都会の繁華街は男の影すらも飲み込み、平然とした装いをして時を過ごしていた。
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