「だからよぉ、いつも言ってんだろー? ほら、ここ。もっと削れるだろ。こんな甘い見積もりじゃ他のところに仕事もっていかれんだろぉ?」
いかにも嫌味そうに不精ひげを左手で撫で、トントンと右人差し指を強めに叩きながら指摘する中園を見て、ここから三十分以上は説教にも満たない小言が続けられると思うと、うんざりを通り越し既に脱力感に苛まされそうだった。
「いつも俺が言ってるのに、守ってくれねぇんだもんなぁ。俺そんな難しいこと言ってるかな? 簡単なことだろうがよ。経費削減しないと利益出ないだろ? 子供でもわかるぞ」
しかし最低限という言葉がある。それ以下原価を割ると、もはや品質そのものが低下していくという限度。
牧島は既に「品質劣化」を見抜かれ、少しずつ顧客が遠のいていっている現状を見ているだけに無力感があり、デスクで永遠とそれらしい指示を出して知ったようなことを並べ立てている中園に怒気すらも無意味であることを悟っていた。
「お前みたいにミスばっかり重ねて、こうして俺のところに来るから俺が寝ずに会社に残って必死に仕事しなきゃいけないだろ? 俺今日三時間しか寝てないから。昨日残って仕事してたからさ」
社長でもない中間管理職の中園はワンマン社長の指令を受けた部長から細かく仕事の内容を指摘され、そのことでも苛立ち愚痴を一日中言う始末だし、それだけならまだしも奥さんとセックスレスで家庭内で邪険にされていることさえも会社に持ち込んで当り散らすことがあるものだから、部下たちはたまったものではない。
「もう少し休みとれとか、家族や子供のことちゃんとかまってとか、俺仕事沢山あってどうにもならないのにさ」
いつかの愚痴で言っていた。
「小遣いないしさー。全部取られちゃうんだもんなー。お前は結婚してないからわからんよなー。結婚生活の苦労なんてよぉ。家族サービスもしなきゃいけないし、俺休まる場所ないよ」
「自分の時間をもう少し持てるよう、奥様に相談なさってはいかがでしょうか」
と牧島が告げたことがあるが、
「これが結婚生活なんだよ! 結婚するってこういうことなんだよ! お前もなぁ、早く結婚しろ。よくわかるからよぉ」
と多少血相を変えられ、いかにも諭すように肩を叩かれた事があった。
「家庭内のことなんて知らないよね。奥さんだって旦那の仕事内容わかっているなら少しは言うべきところ抑えればいいのに」
女性社員たちが給湯室で刺々しい声で話しているのを、お茶を飲むついでにじっくり聞いてきたが、ろくな評価にならないのは目に見えている。
また女性社員が多い職場なので男性が多いところよりも雰囲気が違う。人のいい人たちが集まっているせいか、ほんわかしているというのだろうか、普段はピリピリしていない。
中園は不思議な会話をする人間で、すべて自分に置き換えて話をする。
例えば自分の悩んでいることを話すと「いやー、俺はそうは思わない。なんでこうしないのか」と言ってくるし、飲み会の席でも「俺、こういう味付け好きだからさー」と、人の味覚にも口を出す。
当然、飲み会は密かに計画されることになり、集まりは他言無用となる。
そして、仕事上重大なことのみ報告され、小さなことは下だけに共有され揉み消される。長い小言を避けるためだ。
部下たちは余計な事はせず、最低限の仕事しかしない。それさえもバカらしいと思う人は辞めていくのだが。
牧島も流れてくる言葉を既に「意味」として認識していない。ほとんどが「音」と化していた。
「牧島さん、よく耐えられますね」
と説教直後に小声で言われた時、切り替えができず条件反射的に頷くだけだったことがあった。
牧島の場合、既に「型」が出来ている。
神妙そうな顔をし、「はい」とハッキリ過ぎずきちんと聞こえるトーンで返事をし、最後には「申し訳ございません。反省して次からはきちんとやります」と締める。
それでも顧客のことを考えると「もっとこうしたほうが」と、あくまで「ミス」程度の小さな反逆を試みるが、その度に中園の前で時間を浪費させられることになる。
中園は仕事を懸命にやっているはずなのに、周囲との連携が上手くいかない。噛みあわない歯車が全力で風を切り音を鳴らして回り続けているようで周囲も落ち着かない。また、せっかちな部分もあって、やたらと催促する。
そして「この職場の中で自分が一番努力している」と思い込んでいるし、それゆえに細かい指摘を受けると「俺の努力が否定された」とふてくされ、三日以上は同じ愚痴を繰り返し言いまくっている。
特に部長の言い方がきついわけではない。業務上押さえておきたいことを指摘している範疇だったが、それが「懸命さへの否定」と取れるらしい。
相手をするほうはたまったものではない。仕事以外のことで倍以上もストレスを抱えることになるため、部下たちは各々のストレス発散方法で明日も出勤してくるのだろう。
中園のせいか、牧島も昔やっていた水泳を改めて再開することになったし、何かしていないと職場のことを思い出し恋人にも当たってしまう始末に正直ぞっとして、慣れない絵なども始めたのだった。
水の中は音が地上と違って伝わってくる。水の音、水の感触、掻き分けて進んでいく体。クロールの途中で目をつむって水の中の暗闇を感じてみる。ただ無心になれる。プールから上がるとき、別の人間になった気がして地上の疲れとは違った全身に満遍なく広がる疲労が心地いい。
絵もやってみると、当然下手だったが模写も飽きて外に出たくなってくる。今度デートがてら、自然の多い場所にでも出かけようか。恋人が同意してくれるか。行くとしたらどこがいいのか、調べもしなかった場所を調べ、名前も知らなかった雑草が少しずつ性格を持った花や草となっていくことに喜びを覚えていった。
牧島は恋人の家で共に酒を飲み、互いの愚痴を交換し合っている時にふと思った。
中園の存在も、別に悪いものではないな、と。
少なくとも家庭のことを職場に持ち込んで愚痴を言うような人間にはなりたくないし、こうはなりたくないという例を沢山目の前で見ているのだから、自分が気をつければいい話なのだ。
だが家庭を持つんだったら、転職を考えなければいけない、と牧島は強く確信していた。
会社の構造として、一番望ましい人材は「馬車馬」なのだから。
俺は、そうはなれない。だからこそ出て行かなければいけない。
牧島は恋人の名前を呼んだ。
ほろ酔い加減で返事をする恋人を抱き寄せ、耳元で力強く宣言した。
「俺、荒野で戦える人間になる」
何それ、とケラケラ笑っていた恋人が牧島の目を見て笑うのをやめた。
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