人は良くも悪くも想像できないものは信じないという性質があります。
そして一番の盲点となるのは、自分が信じない及び否定している事柄に対し、相手方の立場から物事を構築せず、完全な思考停止状態からの一点張りに陥るという癖を持っています。
これは、どのような人間でも陥る思考の盲点です。
人は己の感受性と経験的な思慮と思いによって、相手の感情を量ります。
時として愚かで、的外れで、おせっかいでもありますが、その閉鎖された感覚と他者への熱心な想いが、何かしらの奇跡と呼ばれるものへの信念を与えたりもします。
人の発展を妨げるのは「想像力の欠如」と、それを促す行動です。
想像力からはじき出されたものを英語では「idea」と呼ばれるものです。
日本語にすると「アイディア、理念、考え」、哲学では「イデア」と呼ばれたりもします。
世の中には信じられないものがたくさん存在します。
その信じられないものは、何故信じられないものなのでしょうか。
答えはわりと単純なところに落ち着きます。
つまり想像できないか、経験していないか、のどちらかでしょう。
私たちは経験せずとも想像の翼を羽ばたかせ、自由に物事を考えることができますが、閉鎖的な考え、つまり最も自己中心的な考えになると、より多くのコストを自ら支払わなければ得られないということがしばしばです。
これはお金の話をしているわけではありません。
私たちが最も建設的な意識を他者に与え、自らも率先して建設的な行動を示せるにはどうすればよいのかの話をしているのです。
何故建設的な行動をしなければならないかというと、創らなければ消費するばかりになるからです。
労働とは生活の為に有りますが、生活の為だけにする行為は、自らの眼で物を見ても、必ず歪んだ眼で見てしまいます。
その歪んだ眼は他者の創造性を必ず阻害するからです。
もっと言えば異種の物を認めない眼を自ら養ってしまうことになるからです。
その行為は他者の創造性を育てず、ただ消費することになります。
私たち人間は、あまりにも個人的で小さなことにこだわって生きています。
その「小さなこと」が個人にとってはとても重要なことで、そして関係のない他者にとってはくだらないものになります。
この違いは何処から来るのか。
他者へは時として「想像力の欠如」を超えて、「己の閉鎖性」を如実に表しているのかもしれません。
現代の私たちは知識をつけました。
それゆえに知る前に論評しようとします。
一度も出会ったことのない人間に対して出さえ、何かしらの評価を下そうとするのです。
これはとても恐ろしいことであり、あまりにも柔軟で豊かな発想を持っているとは言い難い行為です。
しかし私たちは一度に出来ることや、一生に成し遂げられることは、たかが知れています。
だからこそ自分以外の人間は、自分にはできないことをしており、そして自分より優れた素質を必ず持っていると考えるのが健全であるといえます。
私たちはあまりにも今の豊かな環境に慣れすぎていて、他者が何をしてくれているお陰で自分の生活が成り立っているのかを、まったく意識せずに過ごせるほど狂った環境にいるのです。
今の状態こそ、豊か過ぎる環境こそ、異常な状態であると誰も意識しない、異常であると言った途端、お前こそが異常だと指差されるほどに豊かな環境にいるのです。
その慣れに、自分の思考を麻痺させてしまってはいけません。
何にも感謝できず、ありがとうの感動すら忘れる薄っぺらな大人が出来上がってしまいます。
私たちは、相手の考え方が気に入らないからといって、相手のすべてを否定することはできません。
思考の盲点を完全になくすことは出来ませんが、相手の心やお話に熱心に耳を傾け、じっと聞くことぐらいはできます。
都会に来れば、あらゆる人間は他人となり過ぎ去っていきます。
誰もが他者であれば個人主義になるのは当たり前です。
他人同士ならば他者の為に尽くしても見返りがないと思い込んでしまい、その感覚が他者の創造性にすら冷たく接してしまう癖を作り上げてしまいます。
創るものがなければ消費できる期間はあっという間です。
消費のみの社会では奪い合いがおき、必ず疑心暗鬼に見舞われます。
そのような社会では創造性が生まれるはずがなく、人々は荒んできます。
私たちは創造しなければいけない。
創造を大事にする心を養ってこそ、次の創造へのバトンが渡せます。
最初から完璧などない。
失敗から数多くのことを学べばよいのです。
さもなければ食い尽くすだけの消費の文化しか残らず、滅びるしかなくなるのですから。
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