「大胆さが足りないのかもね」
それは写真を撮りながら言われたことだった。
写真に大事なのは「構図」だったりする。
レンズによって肉眼とは全く違う世界が開けている写真だが、レンズ越しに見える景色を、どう切り取っていくかがカメラの醍醐味だ。
構図の上手い人は、自然と写真も上手く撮れたりする。
自分でもあまり写真はうまくないことがわかっていたが、実際才能を目の前にすると自分の至らなさがよくわかってくる。
四条大橋で歌っていたギタリストがいた。
酔っ払いながら聞くと気だるそうな声とギターの静かなサウンドが心地いい。
最初聞いたとき、深夜に流れてくるB級映画のエンディングに流れるような曲だと感じた。
DoRED。
買ったCDにはそう書いていた。
素面で聞くと同じ曲調。
幅が無い。
歌詞もひねりがなく、まだ知性が足りない。
ああ、路上のギタリストか、もしくはバーの弾き語りで終わりそうな勢いだ、と思った。
残念ながら、と言えばいいのだろうか。
彼の歌を聞いて自分も思った。
芸術家は自分の欠陥を嫌がおうにも世界に向けて発信したがるのだ、と。
これはどういうことかというと、自らの「欠乏感」が逆に「吸収力」となって、自らの周囲に散らばる情報と事象を吸い込んでいく。
そして吸収したものを自らの中で積み木のように構築していき、世界や社会の自らの評価として取り込んでいく。
普通社会で生きていければ、社会の一般常識と適応しなければ普通に過ごしていけないから反発することも無いのだろうが、芸術家というのは所謂「エグザイル=そこに適応できず脱出しようと試みた漂流者」だ。
だからこそ一般社会、オフィスでは使い物にならないような奴らばかりだ。
自分もその使い物にならない奴に含まれる。
「大胆さが足りない」
この言葉は「漂流者」たる自分にとっては致命的な欠陥だった。
つまり、心の中でどっちつかずの気持ちがあって、誰かに嫌われたくないという気持ちが強いから、世界に対して自分の大胆さで何かを見つめようとするのではなくて、誰かの存在を他人を意識しすぎてしまうから、消極性が先に立ってしまって大胆さの欠如を招いているのだと直感させられた。
プロになれば、自分の好きな事ばかりは並べ立てられない。
それは当然のことなのだが、今まで素人がプロになり、素人の時に尖って鋭く研がれたナイフのような才能が、ものの見事に一般受けする模造刀になる姿を見てから、どこに一番バランスの取れる境目があるのかを見定められないで来ている。
芸術家にとって攻撃性がないのは致命的な欠陥だ。
それは勇気がなく、誰も守ろうとせず、保守的な錯覚からくる愚かな身構え方だ。
「漂流者」となったからには、あがく、あがく、あがき続けて見えるものを表現するしかないのだ。
それは万人にとって大事なものであるとは限らす、ある意味、部下も側近もいない裸の王様だ。
だが私は芸術家の存在意義は社会が一つの答えに集中しようとするとき、あえて天邪鬼な立場から「本当にそうなのかな?」と哲学的な問いを与えることなのではないのかなと思っている。
ああ、だから現金で懐に手に入らないのか。
才能というのは、言葉よりも前に心を打つ。
私の写真は「そこで何が起こっているのか」を説明しようとする写真だ。
大胆さがなく、消極的だ。
私の性格をよく現しているようだった。
いつだって悩んでいる。
「どうすればいいのかな」
売れたいし、お金だって得ていかないといけない。
売れるためには誰かに気に入られなければいけない。
そんな思いが消極性を招いているのがよくわかる。
芸術家としての攻撃性は何なのか。
傷つけていくほどの大胆さがないと、もしかしたら何も学べないのかもしれないと思い始めている。
ああ、この歳で、まだそんな考えかよ。
なんて、自分のことをあほらしくさえ思っているよ。
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