「自己」とは、どこで出来上がるのだろう。
「三つ子の魂百まで」ということわざもあるが、もっと人間的な「知性の癖」のようなものは「思春期」に育つものではないかと考えている。
今京都に居る。
時間が合わず、まともに観光は出来ていないが祇園祭は見た。
山車(だし)と呼ばれる神輿のようなものが置いてあり、ものによっては高々と山車から鉾が伸びている。
烏丸にいくつかあり、たくさんの人ごみの中それを見てきた。
後は知恩院、八坂神社など河原町散策。
観光の為に来ているわけではないので、一週間以上経ってもこの程度だ。
取材で京都に来ている。
そして同時に会いたい人にも会いに来ている。
「成人までの痛みの総量」
多くの親は気がつかないことが多く、子供の「自己責任」として擦り付けがちだが、子供は親から受けた痛みをかなりの長い間トラウマとして記憶している。
そしてその痛みは何かの形で昇華させようとする。
例えば他者への暴力となったり、内向きであるならば自らへの暴力となったりする。
つまり自傷行為へ走ったりする。
一種の暴力的な感情が芽生えるのは、暴力を与えられたからに他ならず、それは物理的手段のみ暴力だと認識している人間がよくやりがちな精神的な暴力も含まれる。
どうやら親も、その親から何らかの暴力行為、消極的暴力である無視などを受けていることが多く、かなりの大きな確率として世代間の暴力の伝達が行われている。
親の癖や考え方を子が受け継ぐという形になる。
私が暴力性の世襲に気がついたのは、ここ十年くらいのことで、今もその確信は変わっていない。
中学生の頃から自分の代でおしまいにしたい。もうこのようなことは止めよう。
そう思ってきた。
しかし消えないものがあり、内から湧き上がる破壊衝動は、まだこの歳になっても感じることが多々ある。
いきなり人を殴りつけてやろうとか、切り刻んでやろうとか、私が時折起こす若い犯罪者たちの心理がなんとなくわかるのも、自分の中にある「内なる暴力性」があるからだ。
例えて云うならば氷を持っている人間が太陽のような幸福を与えられても痛みを伴い、自らがおかしくなるような感覚になる。
自分が自分ではなくなってしまうような違和感を持つということだろうか。
しかしそこは人間。
氷の心を持っているからといって、いつまでもそうであるとは限らない。
私が人の内面を書いていて気がつくことは、多くの人間は心の内面を何らかの形で表現をしたがるということだ。
幸福ならば生産的なことに発揮され、暴力的ならば破壊的なことに発揮される。
よって内なる暴力性は何かの破壊活動へと行為が向いていく。
それは「承認欲求」の負の側面であるのかもしれない。
自分が感じている痛みを、誰かと共有する。
自分が感じている痛みを、誰かに知って欲しい。
現代では、この「承認欲求」は「評価」という言葉に置き換わりシステム化されている。
だから普段では気がつかない間に、うまく昇華されるようなシステムがあるが、人間関係のことに関してだけは「評価」とはまったく違う次元にある。
普段これは「ストレス」という形で私達が感じることである。
ストレス、もっといけばトラウマにもなることだが、トラウマの昇華は非常に難しい。
特に思春期の頃のトラウマとなると、至難の業になる。
というのも、この頃に受けた傷は親や身内などから受けた傷が多く、それが人間関係への価値観へとなって形成されているからだ。
何かの形で受けた傷がフラッシュバックする。
フラッシュバックした痛みを心の何処かで感じていて、何かの形で昇華しようとするが、根本が変化していないので、いつまでも消えることが無い。
氷の心があるのならば溶かして別のものになるまで温め続けなければいけない。
それは普通の人間には出来ないことだし、労力もかかりすぎる。
カウンセラーの領域でもあるが、カウンセラーとて人だから相性もある。
そして一番重要な事は他者はきっかけをつくることしかできないということで、最後は当人の行動次第になる。
最後の部分の「行動」だけすっぱ抜いて「自己責任」と言ってしまうほど私も愚かではない。
人はきっかけがないと動けないものだし、そのきっかけを常に与え続けることこそ大事なことであると考えている。
思春期の痛みへ影響を与えることは、その時の価値観を覆すほどの生産的であたたかなものを与え続けなければいけない。
人は気がつかない。
自分が与えたものが人間たちへ還元されていくことを。
自分が与えた暴力が、何かの形で目の前に表出してくることを。
暴力には暴力で、無関心には無関心で。
私の視点は、いつもこんな小さな人間の感情の中から社会を覗いている。
[0回]
PR