いつもイライラさせられる、意味を限定しない、曖昧な言葉として受け取っています。
特にこの手の言葉を他人様に吐く人間は、私の経験上、本当に性根が卑しいところがあって、心が心底貧しい。
太宰ではありませんが、「世の中ではなくて、あなたでしょう」と言いたくなる。
正直に「私が気に入らないから」と言えばよいのに。
それと大人になり気がついたことがあります。
この手の言葉、下衆の部類がしゃべる言葉であって、世の中をよくしようとか、人を幸せにしようとか努力奮闘している人間は決してしゃべらないのです。
つまり「世の中は甘くない」「世の中は厳しい」と言い、他者を幸福にする努力よりも自己と身内の幸福のみに固執し、他者を見下し、世界観を広げることなく、人の痛みなど、あまり意に介さない。
それに変な空気をいつも感じます。
「世の中は甘くない」
だから何なのでしょうか。
人に対して厳しくしなければいけない理由が発生するのでしょうかね。
つまり共有された妙な空気があって、共有された空気は履行されるべきだという意識を強く持っている。
変じゃありませんか?
ご自分が辛いから、その辛さを当てつけに他者へ擦り付けているだけなのではないでしょうか。
本当に他者のために戦っている人間は、世の中の厳しさというものを自分への教訓として生かし、なるべく他者へ何かを還元しようと努力いたします。
卑しい人間はその逆で、他者へ厳しさというものを教訓として叩き込み、なるべく他人から何かを奪おうとするのですよ。
正直何をしてもダメな人というか、向上心なく、配慮も育たず、進歩もせず、同じ過ちを繰り返し、同じ愚痴を繰り返し、行動はせず、注文だけが多くなり、独善的で他者感覚に乏しい人間というのはいます。
そういう人も受け取り消費するだけで創造をしないタイプの人間、つまり搾取を行います。
生産性とは物を作ることや貨幣(経済的な利益)を生み出すということに固執しなければ、色々な分野に広がってきます。
そこにいるだけで安らぐというのなら、それはそれで役に立っている。
実際世の中が厳しいのはいつになったって変わりはないのですが、世の中よりも実質的に人の気持ちが厳しくなっていっているのですよ。
貨幣というものに追い込まれ、生活そのものに苛立ち、政治が浮世離れし、選ぶ権利が情報操作によって剥奪されてくる。
役割分担をしていたはずが各々の持っている情報が不透明になり、騙しあいになり、いつの間にか「自分の身は自分で守れ」という状態になってしまう。
役に立たないやつは早く死ぬことが機能性の向上に繋がると考えるようになるだろうし、人の単位を「人一人」ではなく「数」で理解するようになる。
こういうのは本当に間違っていると感じるのですよ。
芸術家っていうのは、こういう世の中に対して一石投じないといけない気がするのです。
芸術家は人の感性の幅を広げるためにいるわけであって、世に迎合し金をむさぼるためにいるわけではないのですが、賢く考えるならば逆に媚びて金取り巻くって、そしてその金をよいもののために使うという手もある気がいたします。
「世の中甘くない」
そんなことわかってるんだよ。
だからと言って、「その空気のために他者の人間性にまで厳しくしなければならない」とはならんわけです。
それはその人間の狭量さを示すものであり、世の中の厳しさとは関係がない。
他者のため、なんて偽善的で理不尽で見返りがなく利用される恐れがあり損ばかりで失うものの方が多いようにも感じます。
だからこそ確実なのが自分のためのような感覚になりますし、世代のことを考えなければ自分さえ安泰に暮らせれば草木一本残らなくなって、自分が生きている間には困らないのだから関係ないという意識はおおいに育つでしょう。
その「無関心さ」が世の中を疲弊させているのに。
どうして世の中を疲弊させているかって?
じゃあ、今あなた、他人に対して献身的に優しくなれますか?
なれるのなら、今のあなたは心が裕福なのでしょう。
他者に与えられるものが心の中にあるのですから。
[2回]
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