小説ってことについて日記を書いたはずが書かれていなかった。
ブログの投稿ボタンをクリックし忘れたのだろう。
いつもの通りどうでもいいような内容なのだけど、結局純文学で儲けられるような時代はとうの昔に終わっていて、今更それをやろうものなら「飢え死に覚悟でどうぞ」ということだ。
そしてネットのQ&Aにもあったけれど
「純文学というのは、自分が純文学というものを書いているので高尚だと思い上がり、マイナールールをこしらえてそれを守らない人間を虚仮にしていい気になる、閉鎖的で発展性がなくそれでいてそれを高度で無能な輩が理解できないと得意げになり、文学そのものを衰退させている害虫の巣窟です」
文学とは小説とは何か。
時折考えることだし、確かにこの人の言うことは否定できないところがあり、結局閉鎖的な環境にいると、一人作業なものだから自らが自らの思考の迷路の中に入り壁に囲まれていくのに気がつかないという状態が起こる。
上に行くと批判する人間も少なくなるので当然錯覚する。
批判ばかりがよいわけでもないし、応援してくれる人が周囲に残るのは自然な事だけれど、ひとつ環境が違えば作家などとるに足らない愚者に成り果てるのに、それを理解しないで思い上がるのは喜劇にも道化師にもなりえないということなのです。
以前にもこんな内容で書いたような気はするけれど、これからリアリティある文学、純文学系で勝負するには莫大な時間と資金が必要になる。
なぜならエンターテイメントで慣らされた人たちや、環境時代の違う人たちが来るのだ。
今までとは考え方も感覚もまったく違う世代が来る。
その世代を、きちんとした文学に面白みを感じるように育てなければいけないのだから、時間とお金がかかるに決まっている。
売り上げを気にして純文学系を書くのは矛盾しすぎている。
あえて純文学という言葉を使ったけれど、私もあまり心地のいい言葉としては受け取っていないのです。
上の答えにあったようなものもそうなのだけれど「他者の裁量により、文学という定義が曖昧かつ独善的に語られ、まったく本人以外、または親しいお身内以外には通じない、あたかも自らの定義が高尚なような、虚飾の言葉で語られ選ばれた小説」のことを「純文学」というのだなと私も理解しています。
それが前回の日記の内容だったのだけれど、今回は「ああ、運命は数奇」と思うのでちらっと書き残しておこうと思ったのです。
作家としての天性の素質って何だろうと考えるのですけど、才能全般ですが素質って、いつも「非凡」なところにあると思うのです。
生まれつき文章がうまいという人もいますが、私はそういうタイプじゃなくて「小学生の作文」から我流でやってきました。
今は我流の限界を感じ、そろそろプロの人に見てもらって文章ちゃんとして欲しいなとは思っているものの、なかなかチャンスは訪れずにいるわけです。
さて、「非凡さ」というのは別に生まれ持った感性・技術のことではなくともいいと思うのです。
何かそれをやり続けたいと思わせる、やり続けなければいけないと思い込ませる出来事に見舞われるということも「非凡」であると思います。
つまり自らが「引き寄せる体質なのかどうか」はとても重要な要素であり、それがなければ何も起こらないわけであり、何かを起こしてもやっぱり何も起こらないわけです。
待てば何か起こるわけではなく、引き寄せるための、あらゆる努力や手段を尽くしてようやく引き寄せるわけですが、その努力の部分も含めて引き寄せられる体質になれるかどうかなのです。
その数奇さは、やはり「非凡」なのです。
よく作家にはドラマがつきものなのも、そのせいかと思います。
そしてこの日記を書くからには私にもそれなりのドラマが付きまとっています。
通常では考えられないような道を辿っているので、私には自称でも作家を続けなければいけないと思うし、今更「普通」には戻れないのです。
きっと社会生活を健全に営んでいる人から見れば、完全に道から外れまくっているアウトローの仲間というか、その端くれなわけですが、ますます本格的に「異次元の人」になりそうです。
しかし腰を落ち着けて、私らしい視点を持って、膝を突きながら人を眺めていきたいと思うのです。
私には「偉すぎる人」の人生を描くには、少々違和感があり、やっぱり「落ちこぼれ」や「マイノリティ」な人たちが好きなようです。
これも人生。
今まで辿ってきた道があって初めて開けている道なのですから、今更普通に戻って矯正していくのも逆に変な話なのです。
もし妙な青春時代がなければ、この場にはいなかった。
それだけは断言できる。
落ちこぼれの気持ちが理解できるのも、あらゆる人たちのおかげです。
皮肉ではなく、ありがとうと伝えたい。
といっても、皮肉を完全に取り去れるほど、出来上がっている人間でもないのですがね。
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