人間の価値観は非常に薄っぺらく、意識の表面に張り付いているにも関わらず、その価値観を必死に守ったり、存在意義そのものであったりする。
例えば、そんな「人間」などという壮大な話でもない日常。
自分の場合「好き」という好意を伝えられた時、警戒する。
それは自分が利益を持っているときに擦り寄ってくる人も同じなのだけれど、「この人間は自分の何を見ているのだろう」と考える。
人の表面上のものはすべて変わっていく。
例えば考え方、容姿、身体的なもの。権力、財力、名誉、所有物。
時間の流れの中でほとんどすべてのものが変わっていく。
そしてほとんどの人は、他人の流す情報に右往左往し、時には傷つけられ、流されていく。相手の持っている「目に見えない圧力」に左右されていく。
多くの人は悩むだろう。
物事の本質はなんなのだろう。
真実があるのならば、正義があるのならば教えて欲しい、と。
そうやって悩み苦しむのが等身大の人間の姿だ。
だがそれは人間の表面上の価値観の姿にしか過ぎない。
この高度な文明社会の中では、集団の操作は「情報」によって行われる。
多くの人は「情報の根」までは探れないし、その「情報」は「何者の意図によって流されているか」までは考えないので、それが「社会上の出来事」のように意識しだす。
そんな薄っぺらいものなど、自分の生活すらも明日転覆することなど、まず考えない。
極端な例が天変地異だ。
今日まで持っていた価値観が180度変わってしまう。
生きていた人は死に、支えてきたものは跡形もなく崩れ去り、残ったものが身ひとつとなった時、そこに残るものは何なのか。
それこそ「人間の根」だ。
どんなに価値観が崩れても、どんなに目の前の組み立てたものが瓦解しようと、人間の中には変化しないものがある。
だが、そこまで極端な場面に置かれなくとも、「その人の根っこ」は見える。
私だってまだまだ浅いところまでしか見えていないし、これからもっと苦労して深いところまで探っていかなくてはいけない。
小説ではよく「普遍性」などと言われる。
そういえば、これほど薄っぺらく聞こえるものもないだろうなと思うし、この言葉を発するほとんどの人間はどこか血迷っているか勘違いしているかの例しか見たことがない。
口にした途端薄っぺらくなるもの。
その人間の浅はかさが見えるもの。
たくさんある。
何かを決めてしまう前に、もっと考えることが沢山あるのではないか、もっと理解しなければいけない、自分が知っていないことがたくさんあるのではないか。
そんな膨大な情報の中から、ようやくうっすらと重なっている部分が見えてきて、糸のような細い道の先に「変わらないもの」が見えてくる。
そんな作業ができるのは、並大抵のことではできることではないし、中には多くの苦労をしてきて、一瞬にして見抜く凄い人もいる。
そういう人間に一度会ったことがあるけれど、一緒に座っているだけで胃がキリキリ痛んだ。
ほとんどの人は「変化していくもの」に対して「評価」をしている。
そして逆転させて物事を考え「評価」は、まるで「変化しないもの」のように考えるところがある。
まるでテーブルを裏返して食事をしているようなもので、それが慣習となっているので、違和感を持つ人間ですら、その不便さに従わなければいけない。
テレビではあれほど波乱万丈ストーリーを美談にしながら、社会ではレッテル張りを必死にしている。
この強烈な違和感。
その違和感すら「日常」になっているほど薄っぺらなものを見ている人たち。
人には矛盾はある。
そのアイロニーの力をバネにして生き抜く力を得ているところがある。
不思議な力だけれど、それが人間の魅力でもある。
価値観を極限まで削って考える人など、恵まれた社会の中ではほとんどいない。
自分の中に最後に残るのは何か、相手の中に最後に残るのは何か。
人はその根っこと環境という土で決まってくる。
ほとんど変化する中で唯一変わらないもの。
そういうものは必ずある。
そしてそれを見抜くには、自分の価値観など、紙切れ以上にもろいものなのだということを性根に叩き込む必要がある。
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