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あさかぜさんは見た

日記

02/12

Sat

2011

2月11日19時半からのNHK「無縁社会」感想

結論から先に言うと、構成としてあれは強引と感じた。

「働く」ということを通じて、人間は社会とのつながりを感じ、そして必要とされていることで自分自身への充実感を得る。
それはいい。

一番危ないのは、途中で若者の「無縁」を例に「匿名空間」を持ち出してきたことだ。
最後の提示として「働くことを失うこと」や「働くことで得るもの」の対比から、「働かないことで無縁が加速されている一面もあるのではないのか」と印象付け、その上で「働くこと以外にも繋がりは作れるのだ」と示唆している。

しかし構成として強引だと感じたのは、「無縁」というのを捉える上で、匿名空間に存在している無数の人間たちの中には「働いていても」「ネットで繋がっていても」「無縁を感じている」という人たちが多数存在する。
注意しなければならないのは若者の「無縁」という心理と、中高年が感じる「無縁」の心理を一緒にしてはいけない。
私が接してきた匿名空間の人たちの中にはつかず離れず人同士が空間を越えて繋がりながらも孤独を感じる人がたくさんいた。
この「働いているのに」「人と繋がっているのに」「無縁を感じる」例を挙げれば、番組で示唆していることが見事に覆る。
たとえばこれが論文だとして「働くこと」「働かないこと」から「無縁を感じるとはどういうことか」をあぶりだして自分なりの結論を導き出しても、反証が提示されていないばかりに(見た目の上では縁があるように見えるのに無縁を感じているという実態の検証がされないばかりに)結論が強引過ぎる印象が拭い去れない。

番組もいよいよ範囲を広げて若者にまで切り込んできたばかりに、収拾がつかなくなってきている印象すらある。
これは集まってもらって議論をしても、収拾のつかないことになるのは目に見えている。
捉えている範囲が広すぎて、筋道があいまいすぎる。

私はどちらかというと「若者」の「孤独感」「孤立感」のほうがわかるので、中年からの「無縁」とは質も実態もまったく違うとわかる。
若いと「家族」や「家庭を含める個人の経済状況」特に「家庭での価値観」が関わってくる。
しかし年をとってくるとそれらの「家庭の問題(形成された価値観・経済的環境)」は「遠い過去に埋もれた潜在的な問題」になってきて、もっと社会で暮らしている側面・影響が家庭よりも強く関わってくる。
中年からの「孤立感」「孤独感」というのは、今まで過ごしてきた環境、自分のやり方、価値観、それらが一気に否定され、今までの思考回路では一切が通用しなくなるような精神的な閉塞感がある。
これは若者が感じている「人と繋がれない」「価値観があわない」「何かの拍子に自己否定される」という「恐怖感」や「恐怖感への保険」とは少々質が異なるように感じる。

私はネガティブな精神状態の中に長年いたことから、自己を否定されることや、働くことを通しての心理状態も多少はわかる。
働いていないと確かに「無職」として、「人が白い目で見ているのではないか」「社会の役にも立たずただ意味もなく生きているだけで、生きる価値がないのではないか」という心理になってくる。
そして事実そういう論調を口にする輩もいるし、「人間としてどうなの?」とまで言われたこともあるし人が自分を見る目に対して吐き気を覚えるほど申し訳なく感じてきたこともある。
それだけに自分がしっかりと社会に貢献するという意識は自己の充実感を得るためにも必要な手段の一つとは言える。
しかしそれだけではいけない。
働いていても否定される人はいるし、働くことで壊れてしまう人もいる。
当然職についても「無縁」「孤独」「阻害」を感じて職から離れる人もいる。
そういう人たちを番組でも出してきたはずなのに、その人たちが辿ってきたルートをかいつまんで、分岐点すらかいつまんで出してしまうと、見ているほうは印象を操作される形になる。
その人たちのルートを厳密に洗い出さないというのは、結論を先走って考えている。
取材の結果見えてくるものではなくて、取材で見ているものを先走って提示しようという焦りすら番組に見える。
これでは本当の問題は出てこない。

一年ほど前にやった無縁社会の番組は、無縁へ至ったルートがあぶりだされていた。
あの番組は本当に衝撃を受けた。
ああいう例をひとつひとつまとめあげて、出てくる環境の要点を搾り出し、さらに要点のさらなる検証をしていく必要がある。

先日初めて「ジャパンシンドローム」という言葉があるのを知った。
http://www.nhk.or.jp/asupro/
(いつまで公開しているかわからないけどNHK「あすの日本」で見れる)
高齢化の問題や、孤立化の問題、雇用、消費、これらの問題は日本が世界で初めて抱えている問題として世界中が注目しているらしい。
都市部の10分ほどいったところでさえ朽ちた民家が立ち並ぶゴーストタウンのような光景がある場所がある。
高齢化によって消費や労働力にもろに響き、それが経済に深刻なダメージを与えている。
「無縁社会」がこれらの問題と直結しているのはよくわかるのだけれど、本当の「無縁の問題」とは、「私たちが経済成長の中で失ってしまった心のつながりとは何なのか」が一番の問題点だと思うのだ。
その点ではこの「ジャパンシンドローム」と一緒の切り口、これを視野に入れた切り口ではこの「無縁問題」の根にある「失われた記憶」は出てこない。

この番組のタイトルは「無縁社会」だ。
「無縁」とは「縁を失い孤立化していく」こと。
つまりは「失ったものが何かをあぶりだす」ことだ。
だからこそ「今見えているものからは見えない何か」が多数存在する。
それらの問題の根にある「失われたもの」に辿り着くにはどうすればよいのか、もう少し違った視点があってもよいのではないかと思う。

これが私の番組に対する感想だ。

対策に関しては、私たちがもっと「お金がなくなれば何もできなくなる」という状態を回避するために、新しいコミュニティー空間を想像していく必要がある。
それらに関してあらゆる取り組みがなされるのはよいことだし、老人の孤立化や健康に配慮して「一緒に動きましょう」と誘えるのはよいことだ。
私が住んでいる札幌市では、大通公園などを使って結構イベントが開催されている。
そういう活動がもっと活発化していけばいいし、札幌市に関してはとてもよい条件が揃っているように思う。

運動や文化活動を通じて人とつながり、また別のところでも人とつながれる憩いの場を作っていく。
笑顔を作るにはどうすればいいのか。
「共に楽しめる空間を作る」という「共楽」というキーワードを実現するかが肝要だと私は改めてここで提示したい。

P.S.
そう、ひとつ思い出したことがあった。
何らかの事情で学校に行かない、働いていない15~35までの総数は60万人。
これは驚いた。
そんなに?あ、でも自分もそのうちの一人に入っていそう。

もうひとつ最後に気がついたことがある。
私は「団塊世代が何か」ということを理解していない。
何を作ったのか、どんな思考回路なのか、それが見えない。
というか、彼らの世代にはとにかく押し付けられて抑圧されてきたトラウマしか存在しないため、向き合おうとしてもいらだってどうしようもなくなる。
だから自分では見えないものがあるのかもしれない。

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02/08

Tue

2011

2011年雪祭り大通り会場



今年はうさぎが多かったなぁ。
うさぎ年だからだろうな。

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11/25

Thu

2010

もう旅番組で秋の紅葉の特集が組まれた頃は、北海道はすでに散っているという。
もう11月半ばでほとんど散ってしまいました。
秋の名残、おすそ分け。




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10/18

Mon

2010







光の加減や見る角度によって、花はこれだけ違ってくる。

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10/08

Fri

2010

NHK 無縁社会 札幌座談会追記

言いたいことはたくさんある。
感情が先走り、色々なことが積み重なり、個人的にはいっぱいいっぱいですが、「みんなで集まって話し合う場を設けてくれたのだから、そのことに感謝しないといけないよ」と言われ、はっと自分の思い上がりに気がついた。
この言葉をくれた、画面の前のあなた、ありがとう。
あなたのような人に出会えてよかったと思っています。
そして連絡をくださった番組ディレクターOさん、ありがとうございます。
ようやく気持ちも落ち着いてきたので追記を書こうかと。

前の記事で40代の男性のことを少し書いた。
最初から最後まで険しく悲痛に満ち溢れた顔だった。
私はあの人がそこにいてくれただけで、よかった。
私は精神的に完全にダメだった時期があったから、あの人の気持ちも少しはわかるような気がした。
来るだけで、勇気がいる。
そして、現場で活動している実際の意見や言葉の前に、酷くコメントし辛いという悲しい気持ちもよくわかる。
何を感じているのか、何を自分に対して思っているのか、その顔を見せてくれただけでわかるような気がした。

私だって無職みたいなものだから社会的に控えめで消極的な立場に置かれているのだという感覚はよくわかる。
この記事はきっと見ていないとは思うけれど、この場を借りて千歳からわざわざ座談会にまで来ていただいて、本当にありがとうございました。

時代が変わる、と前回の記事で書いた。
これは現在の若者が繰り上がってくるということだ。
今の若者は携帯電話が主なネットワーク手段になっている。
これで非常に速いスピードでネットワークを広げていく。
しかしそれは強く切れない絆ではなく、誰が切れても大丈夫なように保険をかけておくようなものだ。
だから深い付き合いよりも浅く広くという構図になっている。
一度に会話などに意味を一気に込めるのではなく、たわいもない言葉を重ね頻度を上げることによってコミュニケーションをはかっていくのが特徴だ。
つまり深い話は逆に重い。
説教なんてしようものなら、ほぼ絶交になる。
他の人で代替すればよいからだ。
これが「保険」の意味になる。

縦構造があまりにもしっかりしすぎていることに息苦しさと苦痛を感じた人たちは横の連帯を強めていった。
シェアハウスに見られるような、「独りにはなりたくないが、かといって過度な干渉は避けたい」という気持ちを持った人たちが増えている。
この横構造の連帯感というのは、板状のようなもので格子状のものよりもろく、また世代ごとに取り替えられるという欠点を持つ。
つまり壊れやすい板が他の板と交わることなくエレベーター式にあがっては消えていくという図式。

現在のシステムについても同じようなことが言えるのではないか。
つまりシステムが世代ごと、時代ごとに通用しなくなり上から押さえつけられることに強い抵抗感を示している。
蜘蛛の子を散らしたように個が広がりだしている。

システムというのは組んだ途端内側と外側に分かれていく。
システムの恩恵を受ける人とそうでない人に分かれる。
システムは万能ではないし時代の変化によって老朽化していく。
現代人はどうしてもシステムに支配されている社会に住んでいるのでシステムから人を考え出す。
本来ならば逆でなければいけない。
つまり人が動きシステムが自然とでき、できたシステムが人の動きによって次々にアップデートされていく。
これが健全な社会だ。

座談会が終わり、少し他の人と話していた中で面白い話が出てきた。

「世間師(しょけんし)」という存在がいる。

簡単に説明すると、この存在は自分の足で広く見聞を広げ情報をもたらすもののことを言うそうだ。
なるほど、現代社会ではネットや新聞など自分の足を使わなくても何が起こっているか情報を得られるが、それらがなかった時代においては外部の情報をもたらす人間の重要性というものがあった。
これは例えば村社会に自分が住んでいることを考えれば容易に想像がつくと思う。
そうして外の世界を知り、新しい情報により人々が住んでいるコミュニティーが変化していく。
しかしその新しい情報により変化を求めない組織は閉鎖性を強くしていくしか道はなくなる。

日本には二つの歴史があるという。
これは日本ではなくとも歴史や文化を大事にしている国ならば当然あるものだと思う。
一つは「記録による歴史」と、もう一つは「記憶による歴史」だ。
このことは識字率のことも関係してくるが、そもそもの日本には「記憶による歴史」が強くあったはずなのだ。
これは「口頭伝承」の類のものだ。
私はこの話を聞いてピンと来るところがある。
私は文章を書いている。
文章というのは自分だけでどうにかできるような問題ではない。
当然先人たちの技術を吸収しながらオリジナリティーを出していくしか方法はなくなる。
過去や周囲の人間を無視しては成り立ちようがないのだ。
文章には性格が出る。
どうしても「本人の癖」「息遣い」「思想」が基盤となって文章上に現れてくる。
それはいわゆる「個人」である。
口頭伝承に関しても、たとえば婆ちゃん爺ちゃんが話をする時伝説や言い伝えや技術や注意だけの話で終わるわけがない。
そこに「個人」というものが大きく関与して伝えられるわけだ。
つまり、ここに「個の伝承」がある。
そして話を伝えられる人々が集まったりすることもあるので横の連帯感がある。

一方、現代都市社会は経済活動を前提に成り立っている。
ここには「記憶」というものに、一切価値を置かない。
この社会で重要視されるのは経済活動を成り立たせる「行為」であり「技術」だ。
その軸があって、周辺に思いがある。
経済の内容的軸が変われば人の思いも変わるし個人を捨てても支障をきたさない。
経済活動が成り立つことが大前提になるからだ。
いわゆるこの点に強く着目すると現代都市社会というシステムを成り立たせるには「記憶」というものを削り落とし経済を成り立たせる「技術」と「行為」に特化させれば成り立つ。
よって「個人の記憶の継承」などに、なんら価値はない。
経済活動前提で成り立つのだから「老い」そのものにも価値はない。

無縁無縁と今騒いでいるが、「個人の記憶の継承」に価値をおかない社会の根底に何があるかというと実は「民族性の希薄さ」なのだ。
つまり「日本人」となるべき人間は経済都市システムの中に入れれば誰でもいいわけだし、日本人の民族性よりも貨幣経済活動のほうが重要視されている。
ここには日本人はいても日本民族は残らない。
「記憶の歴史の断絶」がどこで起こったのか現代人ですら理解していないから「記録の歴史」から日本人を捉えようとする。
特に東京都は地元から離れてきている人が多い。
知らない人ばかりが多い中、貨幣に力点が置かれ、都会に特化した価値観で人々は構成される。
そこに「個人の記憶」など入りようもないのだ。
グローバル、グローバルというが高度経済都市は民族性を捨ててフラット化していく運命にあるのだろう。
だが、人はそうはいかない。
失われていくものに寂しさを感じるし、生まれ育った「よいもの」が失われていく喪失感はどこかで感じている。
その感触が、人を動かしているようにも感じる。

人は自分を語るという行為を通じて、自分を表現しようとし、自分の存在を確認する欲求があると私は思っている。
自分を語ることに価値を置かれない社会において、その場が次々と奪われている。
アップデートがなされるとしたら、それは「経済的な理由」があってなされる。
そこに「個」の本当の価値があるのか。
経済的な貢献ができなくなった途端、「個」はそこからはじき出される。
これは当たり前の帰結なのではないか、と考える。

私たちがこの先「記憶の歴史」というものと、都市社会システムとを、どう共存させていくのか、それともやはり記憶には一切価値を置かない社会を作り上げていくのか、私たち一人一人がよく考えて未来を選んでいかなくてはいけない。
個と個を繋ぎ合わせるには、「記憶の共有」が必要なのだのだから。

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プロフィール

HN:
あさかぜ(光野朝風)
年齢:
46
性別:
男性
誕生日:
1979/06/25
自己紹介:
ひかりのあさかぜ(光野朝風)と読みます。
めんどくさがりやの自称作家。落ち着きなく感情的でガラスのハートを持っておるところでございます。大変遺憾でございます。

ブログは感情のメモ帳としても使っております。よく加筆修正します。

気が付いたら他人からとても褒められる娘ができまして、人生が大きく変わりました。
この小さな可能性と向き合うため頑張って生きております。

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