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あさかぜさんは見た

日記

10/29

Thu

2009

自分に何が足りないかって、最近は「感動すること」を忘れていた。そんな人間が感動できる仕事をできるはずがない。あふれて語りつくしても語りつくせない。目をキラキラさせながら語ろうとする人間のように心が満ちてなきゃ、誰も魅了できない。あれやこれやと忘れていた。取り戻そうと思う。



最近気がついたことは、人間は自分が創りあげた論理の中に牢屋のごとく納まろうとする。誰かに閉じ込められれば文句を言うくせに、自分で作った牢獄には心地よさを感じるとは、つくづく奇特な生き物なのだなと思う。いつだって「人」と向き合おうとするには、自らを犠牲にする勇気が必要だ。



愛は自己犠牲?いや、邪念で捉えるならば、一生わからないだろうさ。誰かに犠牲を強いるよりも自らが犠牲になる。本当に愛を語るなら、そうしたくてたまらないはず。なぜなら、誰にも傷ついてほしくないのが、悲しんでほしくないのが、究極の理想なんだもの。たとえ夢であったとしても、やるのが愛。



「いい?よく聞いて?まるいものもしかくいものも大事。形によしあしはなくて、足りないもの、できないことを、それぞれしあうの。人の心は目に見えないもの。しかくかもさんかくかもわからない。あれこれ想像しあって違うものを思い浮かべるかもしれない。でもね、伝え合わなきゃいけないの」



悲しみを救ってやれる人間を待つくらいなら、自分がやってやらなきゃいけない。金にならないことばっかりしてさ、自分は飢え死にするかもしれないというのに。でもさ、アホでもバカでも、世の人間の摂理に外れたような本物の偽善者がいたんだなって、笑わせてやらなきゃいかん。じゃなきゃ意味がない。



待ってくれている人がいる。愛してくれた人がいる。今もこの日本のどこかにいて、自分を想ってくれている。それがわかるんだ。ほらではなくてね、愛してくれた女がいる。だからその人のために、「あなたの愛した人は本物だったよ」と証明してやりたいだけさ。



人がついてくるかどうかは、どれだけ相手の琴線に触れたかに比例する。感動もさせられないトップに、人は魅了されない。



誰も何もわかってないくせに、わかったようなふりをする。もっともらしいことは「わかっている」とは言わない。人間のことが「科学の真理」のように、はっきり選り分けられるはずがない。しかしそのために「学問」がある。「教科書」がある。なるべく、制御できるように、教え込む。え?私?天邪鬼。



「万人の真理を語りたいのならば、口を閉ざすことだね。そして何かをたずねられた時、こう答えるがいい。神の思し召しなのだ、と。勘違いしないでくれよ。私は君にペテンを教えたいわけじゃなく真実は常に広大ゆえにあいまいなのだから、言葉では足りないということだよ。だからペテン師もいるのだが」



「参ったか!」「参りました!」「何に参ったのだね?」「とりあえず自分の無事を考えるのに参ったと言ったほうがいいと思いました」



人は誰かにサービスするために生まれてきているわけじゃないよ。でもね、苦しんで痛みを背負っていかなければ、いざと言う時、本当に大事な人がいても誰一人救えない人間になる。そういう人間は、幸福にも出会えない。愛しているよ。だから、あなたの苦しみは私の苦しみ。あなたの痛みは、私の痛み。



あえて偽善者としての罵りを受け、その痛みを受けましょう。そして願います。人が人を思いやれる社会ができますように。

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10/26

Mon

2009

人は楽しければ、自然と行動するようになる。
人は楽しければ、自然と楽しみたいと参加する。

価値のあるものとは、人生の楽しみとなるようなもので、人を楽しませることは最大の価値になるのだ。

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09/18

Fri

2009

人間なんてフィルターはやっかいなもので、最初から「自分のしたいこと、起こって欲しいこと」を根底にもって、情報を操作している。
強欲に最初からまみれたものを「有益」だとか「損益」だとかいう。
違うな。情報を楽しんでいるかそうでないかでしかない。
あとは五感情報こそ真実。



よって情報や経済にゆれる人の心理も苦楽にある。
「売れない」?違う。「楽」を売ってないんだ。
鳥かごの中は虚飾まみれ。
真実なんてほとんどない。
思い込んでいるだけだ。
事実が集まり真実だと共通の認識をしている。
「楽」を取りたいから、真実だと思い込む。
詐欺師が消えない理由はこれだよ。



情報化社会と言うけれど、情報の膨大化によって個々人が分断されて、情報という共通概念で互いが繋がっているという錯覚をし、結局は精神同士の分裂が進んでいるのは、皮肉な反作用と言うしかないのかもしれない。



芸術家は職人でなければいけない。職人はたんたんと自分の技術を磨いていく。
理想とも言う。使命とも言う。衝動とも言う。
それらのどれとも似付かず、かつ近いものを背負って練磨する。
パフォーマンスと芸は次元が違う。
しかし、パフォーマンスのよいものが大衆には受ける。

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04/24

Fri

2009

NHK映像ファイル「あの人に会いたい」-安部公房

前にも載せたけれど、
何度も教訓にしている。





ぼくにとっての関心というのは
今を見ること
それはぼくにとっての
メビウスの輪ですよ
それを箱とか
壁とか砂というものに投影する
いい投影体を探すことですよね

ぼくは実は
テーマを考えながら書くんじゃない
みんなそう思うらしくてね
テーマはテーマはというんだけれども
テーマというのは後でね
作中人物とぼくが共同で考え出す
だから作中人物がテーマを思いつくまで
僕は待たなきゃいけないわけね
視点を変えるとね
わかりきったものが迷路に変わるだけですよ
例えばぼく昔なんかに書いたことがあるが
犬ね
犬は目線が低いでしょ
においは利くでしょ
だからにおいでもって
においの濃淡で記憶や何か全部
形成しているわけでしょ
だから犬の感覚で地図を
仮に地図を作ったら
これはすごく変な地図になるでしょう
体験レベルで
ちょっと視点を変えればね
われわれがどこにおかれているかという認識が
ぱっと変わっちゃいますよね
その認識を変えることでね
もっと深く状況を見るということ
だからぼくはね
結局文学作品というのは
ひとつのもの
生きているものというか世界
極端に言えば世界ですね
小さいなりに生きている世界
というものを作って提供する
そういう作業だと思っていますけどね
だからお説教や論ずるということは
小説においてあまり必要ないと思う
いわゆる人生の教訓を書く
なんてことは
論文やエッセイに任せればいい
小説と言うのはそれ以前の
意味にまだ到達しない
ある実態を提供する
そこで読者はそれを体験すると
いうもんじゃないかと思う

――それを割合わたしなんか意味を読んでしまう
――と、やはり迷路に入るということ……

いや、迷路でいいんです
迷路というふうに
自分が体験すれば迷路なんです
それでいいんです
終局的に意味に到達するのは
間違いですね
これは日本の国語教育の欠陥だと思う
ぼくのもなぜか教科書に出てくるんですよ
見ていったら
「大意を述べよ」と書いてある
あれぼくだって答えられませんね
ひと言で大意が述べられるくらいなら
書かないですよ
それこそ最初から
ぼくは大意を書いちゃいます

「人生というものは
赤い色をしていて
中にはちょっと緑色が入っている」

例えばそれが大意だとしますね
そう書いちゃいますよ
最初から
よくあるよ
温泉なんかの案内図
山書いて道路書いてロバがいて
花が咲いて…あるじゃない
ああいうもんだよね
もともとの小説がそういうもんならね
そりゃいいでしょ 解説で
だけどね
実際の
例えば地図というものはね
そんな簡単に
ちょっと見てもわかりませんけど
見れば見るほど際限なく読みつくせる
いちばんいいのは
航空写真とかそういうもの
無限の情報が含まれている
その無限の情報が含まれていないと
ぼくは作品と呼べないと思いますよ
無限の情報ですよ
人間なんて 考えてみたら
そういうふうに人間を見るということね
見なきゃいけないし見えるんだよ
ということを
作者は書かなきゃいけない
読者に伝えなきゃいけない

ぼくらは子どもの時からね
五族協和という教育を受けているんですよ
満州では
五族というのはよくわかりませんが
日本人 朝鮮人 中国人
ロシア人 蒙古人 でしょうかね
そういうのが平等であるということを
建て前として教えられるわけですよ
子どもだから信じるわけ
クラスの中にも異民族いましたしね
ところが汽車なんか乗るでしょ
そうすると日本人の大人が
中国人が座っていると
けっ飛ばして席どかして座るでしょ
そういうのを見てやっぱり頭きてたよね
五族協和に反すると思ってさ
結局子どもの時に素直に
五族協和を信じたことが
いろんな疑惑を逆に生むという
結果にはなったと思いますよ
それからやっぱり
なんでこんなに生活の差があるのか
あるべき姿でないと これは

――そこへ敗戦ということが生じたわけですよね

まあそうですね
僕も家といえば満州だった
それがなくなるわけでしょ
だから敗戦というものは観念じゃなくて
愛国心が裏切られたとかじゃなくて
事実もう
場所を全部失ったということは
頭じゃなくて体で感じていた
でもそれが
そんなにつらくなかったね
人間って しょせん
いつでも何かを失っていくほうが
幸せだと思った
満州で育ったということは
非常に都市的な生活をしてきたということなんです
子どもの時から
そして周囲に農村がないということですよ
農村は全部中国人ですから
だから満州で育った人間の一つの特徴は
非常に都市的な人間に
生まれた時から作られてしまった
ということがあるんじゃない?
だから農村と都市との問題については
非常に敏感にぼくの問題になった
ということは言えるでしょう

――それはその後も

そうですね
いろんな発想の一つのバネにはなった

――自分と他との関係…

ですね
自分というか
他者というのは何かということですね
他者との通路を回復しない限り
人間の関係というものは
本当のものはできないんだ
ということで だから
ぼくの小説のある意味で一貫したテーマは
人間の関係とは何か
他者とは何か
他者との通路の回復はありうるのか
というところが
一貫したテーマの一つになっている



自己流の解説:


最初の部分で「メビウスの輪」と言っているのが面白い。

メビウスの輪は「堂々巡りをしてゴールに行き着かない」ことを意味している。「無限のねじれ」「表裏がない」「あるところで切ると輪ができたりする」などの意味もある。

はたして同じところを無限に巡ることに意味はあるのかという疑問が生じるが、「小説と言うのはそれ以前の意味にまだ到達しないある実態を提供する」と言っている。

ここに安部公房の作品に対する最も鋭い視点がある。

全体を示して「これはメビウスの輪」という前に、もっと細かなレベルで「輪を見る」。

この「もっともっと細かく、細かく、どんどん細かく見ていく」この作業において突き詰めていくと、そこに存在している確かなものが「テーマ」となりえる。

その実態を寸分の狂いもなく描ききることで、逆になんらかのテーマを持ちえる。この実態を捉える作業に狂いがあれば、瞬時にして作品性が消え去る。

常に主体となる世界を通して、何か別のものを投影できるのは、最初から「テーマ」を捉えているのではなく、誰かがもっている世界観を厳密に突き詰めていくことにある。それが勝手にテーマを持ち出す。

小説における役割というものは、もっとあいまいで確かに存在している実態を捉えることで、そこに「普遍性が」とか「人間性が」なんてのは、最初から考えて書くとなると、小説においては、ひどく薄っぺらく滑稽になるということでもあろう。それは論文やエッセイにまかせろ、と。

都市と農村は簡単に言えば人口と自然、機械と五感。都市と農村が持っているものを厳密に突き詰めれば様々な人間テーマが生まれてくるだろう。

「いつでも何かを失っていくほうが幸せだと思った」

逆説的で、言及のできない言葉だが、むしろ「喪失」、それは「取り戻せない何か」ではなくて、もっと前向きな意味として、「再生」と「再結合」別のものとしての「再結晶化」を意識した言葉なのだと感じた。


だからこそ最後は、「ぼくの小説のある意味で一貫したテーマは人間の関係とは何か、他者とは何か、他者との通路の回復はありうるのか」と言っているのだと思う。



作家であろうとするものにとって安部公房のこの言葉は永遠の教訓として胸に刻んでおかなければならない。

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04/24

Fri

2009

私はあの人の中に「子供のような純粋さ」を見る。
あの人が一番凄いと思うのは、誰よりも弱い自分、そのもろさを徹底的に肯定しているところだと思う。
大人は誤魔化す。
誤魔化して自分の感情を認めなかったり突き詰めなかったりする。
しかしあの人は違う。
寸分余さず、誰よりももろい自分を徹底的に突き詰めようとする。
逆説的にそれが強さになっている。
「子供の純粋さ」が最も結晶化していないとできない作業だし、道具を体の一部とする感覚機能も突き詰められない。
自分を一欠けらでも否定しているところがあれば、道具を神経そのものにすることはできない。

凄い。
あの人はアーティストだ。



追記:
演奏者というのは、技術が高まってくると、自分の中に限界が生じる。
これは演奏者じゃなくても「道具」を扱うものの宿命なのだけれど、演奏者における音の限界とは「楽器」そのものにある。しかし、楽器というものが、道具ではなく身体の一部になると、音に魂が乗るようになる。
たいがいにして最高の演奏者という人たちの音が感動に満ち溢れているのは、その音に込められる人生観を聞き取る以上に肌身で感じとれるからに他ならない。
これは演奏者が楽器を体の一部としていなければ到底できないことである。
「道具」を「体の一部」にするにはどうすればよいのか。
秀才と天才の違いは、秀才は技術における最高のレベルを極められる人。
天才とは技術を超えて「感覚の世界」において最高のレベルを極められる人だと自分は思っている。
秀才と天才の壁はここにあると考えている。
だからこそ「天才に理屈」はいらない。
「感覚の天才」であればよいだけで「理屈の天才」である必要性がまったくないからだ。
普通人間が育つと過去の経験を裏打ちするために「論理を固め」ようとする。
天才とは自分の感覚を知る。
その感覚におけるデータを自分の中に蓄積すると、今度は「ブレ」がわかる。
どれだけ落ちたのか、上がったのか、調子のいいとき、悪いとき、「平均点からどれだけずれているか」がわかって、自分が今どこにいるのかも正確にわかる。
この感覚はたいがい失われる。
大人になっていくにつれ、集団における協調性というものが、いつの間にか他者に気を使ったり(それが自分の中の主軸になり)、何か言われてひどく気持ちがぶれて元に戻せなくなったりということは往々にしてある。
しかし、ちゃんと自分の位置を知っていれば、また元に戻ってくることはできる。
他人に振り回されていればできないし、自分の中に絶対的に信じるものがなければ、なかなかできない。
自分と戦い、相手とも戦う。
自分の中の「ブレ」を精密に見つめ続け、観測し、蓄積させ、すべての自分の状況を把握した上で、向かってくるものに対して、水を流し込むようにして自らを適応させる。
つまり、「あらがうこと」と「従うこと」という、まったく正反対にある両極を極めなければ、絶対この境地にまでは達することはできない。
総じて「プラス」と「マイナス」を同時に最高のレベルで発揮するのだから、「ゼロ」 … 無限大の可能性なのである。

でもね、これにはもうひとつ危ういマイナス面があって、普通の人が簡単に忘れ去るようなことでも、ひどく心や体に傷として残るほど致命傷になるときがある。
彼が他人のバットを絶対に持たないというのは、そういう理由だと思う。
「感覚が鋭い」とは諸刃の剣なのである。

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プロフィール

HN:
あさかぜ(光野朝風)
年齢:
46
性別:
男性
誕生日:
1979/06/25
自己紹介:
ひかりのあさかぜ(光野朝風)と読みます。
めんどくさがりやの自称作家。落ち着きなく感情的でガラスのハートを持っておるところでございます。大変遺憾でございます。

ブログは感情のメモ帳としても使っております。よく加筆修正します。

気が付いたら他人からとても褒められる娘ができまして、人生が大きく変わりました。
この小さな可能性と向き合うため頑張って生きております。

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