ある世界の中で閉じている思いがある。
もし知らない人間がその人の書いた文章を読めば、何かかわいそうに、とても苦労しているように見えてしまう。
しかし事情を知っている人間から見ると、破綻というにはぬるすぎるものがそこに書かれている。
いくつもの疑問が浮かぶ。
プラスを望んでいたはずじゃないのか。
神頼みまでしていたはずじゃないのか。
人との関係を切ってまでやったんじゃないのか。
それをやったにも関わらずマイナスを選ぶのか。
ならばプラス方向にある最も密接な関係を何故望むのか。
何故プラスの状態になる自分を望んだのか。
そこで、さらにどうしても引っかかってくることがある。
これほど自分のしていることを認識できていないのも珍しい。
自分で選んだことが、あたかも予想だにせず降りかかってきた不幸のようになっている。
何故ここまで自分のしていることが、そうでないことになっているのか。
ふと頭に浮かぶ。
もしや、「作っているから」ではないのか。
自分のことではない、と認識するために、別の事実を自分の中で作り上げようとしているのではないか。
もしそうなると、「嘘」を作り出していることになる。
人は一度「嘘」を作り出してしまうと、その「嘘」を維持させるために莫大な精神力と記憶力を使う。
一人の人間が「嘘」を維持させるには壮大なストーリーが必要だし、通常ほころびが出る。
これが玄人になると小さなほころび、ぼろしか出さないため、「記録」でも取っておかなければ、口述や文章などの矛盾点はわからない。
つまり私たちは人の話をこと細かい範囲まで覚えてはいない。
「作る」という作業をしているとなると、その人間の話は慎重に聞かなければならなくなる。
疑い、ではなく、全面的に信用した上で、客観的な証拠で固めていく。
肉付けされた部分と現実を、細かな範囲で選り分けていく。
もし「嘘」があったとしたら、いつからその「嘘」は存在していたのか。
いつから、「嘘」に苦しめられていたのか。
その人にとっては、その「嘘」の世界が「真実の世界」だ。
だからこそ、「嘘を暴く」ということは今まで築き上げてきた、全ての世界の崩壊を意味する。
非常に危険な作用を及ぼす。
だからもしそれをやるのならば、責任を取らなければいけない。
しかし、嘘の世界に成り立ったものは、所詮どこかで崩壊する。
残念ながら砂の城だ。
同じものを作り上げては、また無に戻る。
小説は、誰かの復讐のためにあるわけではない。
何者かを不幸に陥れるためにもあるわけではない。
だからこそ、慎重に慎重に、誰かの証言に基づいて書くものであれば尚更、慎重に慎重に。
私は、今回の小説で自分を全て曝け出す。
そうして人間を描くということを知るだろう。
人一人の覚悟は、そう甘いものではない。
それがわからないのであれば、その人は一度も「覚悟」をしたことがないのだろう。
もしくは、他人を心の底から意に介したことなどないのだろう。
人一人は、そう軽いものでもなんでもないんだよ。
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