辞書の定義を求めてある一定の物事をくくりたいのなら、辞書を引けばいいのに、なぜ私の感覚をわざわざ言葉にする必要性があるのか疑問に思う出来事があった。
「芸術ってどういうもの?」
という簡単な質問だった。
考えながらまごまごして、「無形物から生まれる有形物でしょうかね?」と答えたら「それは芸術の定義にはならないな」と答えられた。
別に定義で芸事をしようとしているわけではないから、どれだけコケにされようと私には関係のないことだった。
その方は非常に本を読まれる方で、私の読書量の大変少ないことに対して「そんなことで文章書こうとするほうがおこがましいわ。やることを言わないほうがいい」といわれた。
そりゃそうなのだが、文学とネット上でのコンテンツとしてのエンターテイメント文章とは、まったく違う方向を向いている。
私は少なくとも紙にはしたいので、確かにその方のいわれることも一理あるかとは思うが、芸術の最終目標は「限りなく無限に近い同化」であって、限りなく限定されたものへと向かうのは「感覚」を「広げる」ことから反している。
つまり、何かでくくろうとすること自体、行動としての芸術には反する。
芸術には矛盾がある。
我々はツールを使う。
本を書くなら文字を、絵を書くなら絵の具や筆などを使う。
これは、限りなく無限に近い状態、つまり感覚の鋭敏さが世界へと溶け込んでいく、同化することによって得られる達観した状態を限りなく封じ込めることになる。
無限を限定すること。
芸術としての矛盾はすべてここにあると私は考えている。
そして、永遠にこの矛盾と戦い続けるのだ。
経営コンサルタントをなさっている方だったが、正直に言って「商売になるかならないか」なんてことはどうでもよいのだ。
私は「利道」の大原則は「投資」にあると思っている。
「投資」とは、「他人の幸福を育てる」ことだと思っている。
投資におけるお金とはそのように扱われるべきなのだ。
物を売るということの裏には、「この道具を使うことによって少しでも幸せに貢献したい」という思いがなければ商品は魅力を持たないと私は考えている。
さもなければ最終的にお金に裏切られることになる。
それもそうだろう。
最初からお金を裏切っているのだから、最終的に見放されるのは当然だ。
私は「これは儲かる」「これは儲からない」という基準よりも、一人でも幸福にできるだろうか、もしくは後世に何か残せるだろうかを基準に考える。
一人殺して百人救えるのならば、私はちゅうちょなくやろう。
辞書としての定義などどうでもいい。
一人殺すことが「救済」かと言えばそうではないではないか。
だが結果的に百人を「救済」している。
定義が人を救っているわけではない。
定義が芸術をしているわけではない。
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