こうしていけば上手くいくよ、と幸せになるためのヒントは与えた。
そのヒントとは私独自のものじゃなくて、幾万以上もの人間たちによって洗練されてきたもので、生きるためには大きなヒントとなってくる。
でもそのヒントさえも君は捨ててしまったんだな。
「こうしなければ幸せになれない」
「これ以外に方法を知らない」
と言って行動していったはずなのに、今も君は不幸だと嘆いている。
不思議だ。
自分のやり方に固執し、私はそれはダメだと言ったのに。
自分のやり方を変えようともしない。
不思議だ。
そして巡り巡って君はまた同じことを繰り返していく。
まるで不幸になるために、せっせと準備しているようにしか見えない。
例えば例を出すなら何でもいいんだ。
持てたいと思っている男がいる。
だが待つばかりで声をかけない仲間を作らない相手のことを知ろうとしない新しいコミュニティに飛び込んでいく勇気がない自分のことばかり喋る。
しかも相手の欠点があった時非難する。愚痴めいたことばかり言う。
自分の人生はこうだからしょうがないと諦めにも似たことを言う。
そんな姿勢の男が女にもてるだろうか。
一緒にいても酷くつまらないし苦痛そのものだ。
自分の姿勢全てを見直さない限り、望みなど一生叶わない。
結局自分が幸せになれないと自他を責めていることは、結果的に人間そのものを馬鹿にしている。
自分を否定することは、好いてくれている人を間接的に否定している。
人間を馬鹿にしているものが、人間に持てたりするだろうか。
不幸を嘆く。
不思議だった。
不幸ばかりではなく幸せな事も沢山あったのに、それは蓄積されない。
何か膿めいたものが堆積していって、それを吐き出さなければいけない。
その気持ちはよくわかる。
自己卑下や否定を繰り返すことで他人から与えられた傷に備えられ、精神のアップダウンを避けられるという原理も自分はよくやっていたからわかる。
しかし身近にある幸福に目を向けようともしない。
不幸ばかりを嘆く。
朝の一呼吸に感動したりしないのだろうか。
ちょっとした贈り物に心がウキウキしたりしないのだろうか。
誰か話せる人がいて話を聞いてもらえることに心から感謝したりしないのだろうか。
つまりは不幸にだけ目を開けて、幸せには目を閉じている。
だから幸せになれないのは当然のことなのに。
他人が信用できない。
だったら自分を鍛えるしかない。
なのに依存先を永遠と探し続けている。
そして傷つけられた裏切られたと嘆く。
その間に自分は鍛えたのか。
夢を実現するには理想の生活を手に入れるためには自分を徹底的に鍛え上げるしかない。
その努力は一日一歩でもいい。一万も二万も進む相手と比較などしても意味がない。
後ろに進もうとするよりずっと立派だ。
誰かにその努力を馬鹿にされようと昨日より前進していれば成果を出し続けていることになる。
それも辛く苦しいのだろうか。
私も誰かに精神的圧力をかけられたりすると動悸や体や手が震えるなどの症状が出ることがわかった。
一度やられると何日も引きずることも。
私はこの症状を直すには「とことん勝負の場に出る」しかないと思っている。
正直人生で辛いことは行動もせず妄想だけが積み重なることだとわかってきた。
邪念が増える。
やりもしないことが頭の中で蓄積される。
恐れだけが膨れ上がる。
悪循環だ。
人間は行為の中でしか自らの正しさを立証できない。
自分が不幸だと思うのなら、考え方から日常の行為に到るまで、全てを見直さなければいけないということだ。
それとも不幸に一生酔い痴れていたいのだろうか。
年を取ってくると自己弁護は段々許されなくなってくる。
習慣とかした愚痴も嫌がられ、それらに共感する人間も少なくなってくる。
何故なら人生は己の力で動かしていくものだという大人が多くなるためだ。
子供が大人になり、大人は少しでも前に進もうと、よりよい幸せを得ようと日々を生きようとするからだ。
もし不幸を嘆くことに共感する人間がいたとしたら、同じような人間だけだろう。
そのような人種で周囲を固めてしまったら、足の引っ張りあいになる。
互いに擁護しながら、何も前進させないという「善意めいた悪行」を繰り返すことになる。
「君は君のままでいい。そのままでいいんだよ」という最も不幸へ突き落とす優しい悪行が身にしみたものだけが残っていく。
そして時間だけが過ぎていく。
これこそ最も不幸なことだと思う。
いつか目を覚ましますように。
人を少しでもあたたかく見れる瞬間が訪れ、それが蓄積されていきますように。
心から祈っている。
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