ルース・ベネディクトの「菊と刀」を読んだとき、非常にイライラして、様々な過去の出来事を思い出して一応はすべて読んだがひとつも覚えていない。
いわゆる「典型的な日本人像」というか、負の側面に私はずっとやられてきていて、約10年以上もそのことで苦しんだことから非常に強いアレルギー反応を持っているということがわかった。
このことは非常に強いコンプレックスを引き起こし、非常に強い偏見を引き起こし、非常に強い偏屈さを引き起こし、非常に強い攻撃性を引き起こしている。
そして、克服できない弱さが非常に強い幼稚さを引き出している。
極めつけには皮肉屋ときているから、嫌われ度満点だ。
私は自分自身のやつもそうだが、すぐ他人の感情に影響されやすい。
ふとフォーカスしてしまうと危ない時がある。
ふっと「死んだほうがいい」と思ったり、すべて捨てたくなったり、非常に不安定になったりする。
一瞬にして世界が変わる。
酒を飲んで忘れようとする。
切り替えをしないと何日でもその感情に浸り、感情の動き方を探っている。
つまりどっぷりと体験しているのだ。
これは綺麗な言葉を使ったからと言って改善されない。
完全に一度抜く必要がある。
より底辺に位置している感情だからだ。
そして美しいものは上位に位置していて、これは下地がしっかりしていないとなかなか感じられるものではない。
例を出せば憎しみや怒りは感じるが、絵画を理解するにはそれだけでは足りない、といったところだろうか。
何でもいい、優れた絵を見て深い情緒や思想や美を見ていくには、自分が負の感情に犯されていない必要がある。
私は時折思うことがある。
自分を友達としたいか。
いいや、どちらかというと嫌だろう。
非常に苦手意識が出る。一緒にいたくないなと。
偏見や思想は多少なりとも移っていく。
伝染していく。
たとえばすぐに他人を見下すような集団に長く属していれば自然と他人の粗を探すようになるし、ひたすらある一定の基準だけで物事の優劣を決める環境にいたら、自然とその上下で人を判断するようになる。
弱者は死ねという思想の中に5年以上いて、正常な感覚を養い続けるにはいささか難がある。
このように人は集団によって左右されるものだと私自身は考えている。
反発し、独立していく人間もいるが、残っていく人間は稀だろう。
私は長い間偏見の中にいた。
今よりも酷い偏屈さの中にいた。
正直吐き気がするほど歪んでいた。
もしここを読んで「こいつちょっと普通じゃないな」と思ったなら、その10倍は酷いと考えてもらっていい。
なぜそうなってしまったのかは、心当たりはあるがやめておくが、アレルギーというのは一度反応が出てしまうとほとんど一生ものとなる。
最近は徐々に体を慣らしていって、耐性を作るという方法もなきにしもあらずらしいのだが、心のアレルギー反応を取り去るには、非常に長い時間がかかる。
長い時間をかけて徐々に鳴らしていかないといけない。
この自分のコンプレックスとどう上手く付き合うのか、まったくわからないでいる。
対処法もなく、じりじりと腐るままにしておいている。
だから今の私には「大人になる」とか「大人の考え」とかがまったくわからない。
それが幼稚さをいまだに残している原因であり、成長できない自分の最も大きな欠点でもある。
それをうまく生かせないだろうかと小説を書いているが、10月末程度までに結果が出なければ一度書くことを凍結しようとも考えている。
いよいよ、ぎりぎりのところまで来た。
これ以上の事をするには、結果が出なければ継続できない。
そこまで来た。
死ぬのは簡単だが、少し生きていようと思う。
死んだ後人が悲しむのはどうでもいいことだが、困る人がいる。
それは私の能力を欲している人であり、理解してくれる人でもある。
変なことを考え出した時、その人たちの事を考える。
アレルギーやコンプレックスとどう付き合っていくか。
大きな課題になっている。
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