そういやいくつかバーで話していた内容を思い出しながら書こうかと思う。
「ラップとかやっている人がいて、それでそこそこのレベルなんだけど、結局俺には働くの似合わないし、みたいなこと言って、ラップやっている間は周囲の人からちやほさやされるから働いてもすぐやめたりとかして、いまだにフラフラしている友達とかいるんですよ」
という20代半ばの話を聞いていて、そういえば最近「才能」の話をしたなと思い出した。
才能っていうのは、ないものだと思えと。
自分は凡人だと思え。
自分は凡人で何も持っていないのだ。
その凡人が周囲から見られたら「あの人って才能あるよね」というレベルまで高めなければいけないのにどうしていかなければいけないのか。
テレビとか雑誌とか映画とかの影響で、ついつい「天才」を眺めて「俺もすぐに天才にまでいきつくことができる」という錯覚をしがちだが、そんなものなんてないんだと。
そういう凡人的自覚を常に持っていないといつか停滞する。
本当の力っていうのは、制御できないところまできて本物。
たとえば誰かに影響を与える。
影響を与えたやつは動き出す。
そいつがどうなるかなんてわからない。
そういうのが「力がある」っていう。
だから本当に力をつけると制御できなくなるものがたくさん出てくるんだ。
そういう力を、みんなは「才能」って呼んでるんじゃないのかな。
結局自分自身への客観的な視点を持って欠点や長所が見えてこないと補うべき部分も伸ばすべきものもわからない。
それって「好き」じゃないんだよ。
「嫌い」もあると思うの。
本当にやりこんだら自分の「好き」という範疇では収まらない複雑な感情が芽生えてくる。
「嫌い」の中にも「好き」が出てきて「好き」の中にも「嫌い」が芽生えてくる。
つまり影響力も自分を突き動かそうともしないのは進んでいるのではなく限りなく停滞しているのね。
停滞している力に依存しているにしかすぎないわけ。
そういうのは絶対自分で答えだせない。
環境の力に流されて、自分はこうなるはずではなかったと言うしかなくなる。
それってやっぱりそのことが「好き」じゃないんだ。
憧れているだけ。
憧れは「好き」ではないよ。
自分のものではないんだもの。
という話。
世の中には「凡人力」が足りないのじゃ。
うんうん。
自分は何も知らない。
何も持っていない。
そういう自覚があるからこそ誰かに対して長所を見出せるのではないかなと思う。
そして自分に持っていないものを学ぼうという気持ちが生まれる。
謙虚になれとか、そういう説教がましい話じゃないんだ。
きちんと物を見る目を養いましょう。
「好き」ができれば、「好き」が自分のものになったら、そこから世界は広がっていく。
そして新しい恩恵を受ける。
「嫌い」が多いと、それが壁になって結局得ることが難しくなってしまう。
「好き」は得する。
だから自分は何も持っていないという「凡人力」は「好き」を高めるのではないか、ということなのですよ。
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