「神聖かまってちゃん」っていうバンドがあるみたいで、NHKの特集を最近ようやく見たのですけど、その紹介されていたコメントで「何も響いてこないのはよっぽど幸せな人生歩んでいた人だよ」と書かれていたのを見て、響いてきた私は精神的には決して幸せばかりではなかったのだなと、いや別に不幸とか幸福とか関係なく作家になればすべてプラスになるので、だからこそ様々な感情を偽ることなく書き留めておくことが非常に大事なことになってくるのですが、結局私は彼と同じような作業をしていて、そして彼自身が充実してくることによって失われる、言葉を換えれば成長している部分もなんとなくわかって、しかも「どこまでいっても孤独」という部分にも頷いてしまうところが多く、何かと再発見がありました。
そこで重ね合わせながら思ったのは、自分に一番心配しているのは満たされることで変化してくるものが何なのか、というところです。
当然満たされないとできないものがあり、これから書こうと思っているテーマのほとんどはコンプレックスや欠乏、世への恨み、自分の非力さ、などを越えていかなければ到底書けるものではないので、なんとかしてのし上がって自分の本当に目指していたものをしっかりと残したい気持ちはあるのです。
それと同時に、出発点となっていて、かつ長年抱えてきた「幼稚で攻撃的で卑屈な感情群」が消えなければいいなとも思っているのです。
成長して人間的に成熟した作品というのは当然多くの人の共感を生むだろうし、それだけに売れる。
しかし私はほんの少数だけれど確かに存在している真実も無視してはいけないと考えているのです。
文学だからこそ、そういうニッチな作業もできるし、ほとんどの人には関係なくとも、その人にとっては救いを与えることになるかもしれないものだってできる。
私たちは生きるための希望、それも自分の人生にぴったりとフィットしてくるような希望が欲しいわけです。
明日を生きるための原動力が。
私はそういう原動力を与えるのは命を真正面から見つめようとする命のあたたかみだと思っています。
私は別に人間的に素晴らしい人間を目指したいわけでも何でもなく、もうこの「文学」という世界に本格的に入り込み、そして表現を通じて芸術というものを背負っていこう、人間の感情を背負っていこうと思っている身分なので、どう思われようといいわけです。
そういうものをひとつひとつ観察しながら自分の感情がどう揺れ動くのか知りたい。
きっと壊れてしまうかもしれないけれど、結局は背負った宿命なのかなとも思います。
最近書きおわったやつで題名が『ある「小説家」』というのができたのですが、面白いエピソードを入れておきました。
北日本文学賞に送ったのですがね、そのエピソードは扉なのですがくぐればくぐるほど扉がマトリョーシカのように小さくなり周囲の光が失われていくというものです。
後ろの光景はしっかりと見えるのに前方の光景だけは歪んで見える。
これは多くの人間が歩む道だと思っています。
そして最後までクリアに前方を見渡すためには、どうしていかなければいけないのかが、私が小説家として最後まで使命を全うするための課題だと思っています。
満たされる部分はあっても、飢えを残しておかなければいけない。
その「飢え」はコンプレックスであってはいけない。
解消されれば飢えが消え去るから。
じゃあそれにかわる「飢え」を見つけ、追い求めていかなければいけない。
私が見つめている世界が自分の価値観によって歪むようではいけない。
その歪みを矯正するために、日々どんなものでも吸収できる器を作っていかなければいけないなと、己の小ささを省みて思いました。
しかしまあ、先日も友達と話したのですが「俺汚い人間なんですよ。悪いとわかってて直せないんです」と言われたけど「俺も同じようなものだし」と苦笑しながら聞いていました。
私は短期的に負け続けても、最後には人生の勝利者になればいい、そのためには常に「克ち続けること」が大事なのだ、と思っています。
つまり自分を克服することなのですね。
そうやっていってこそ、新しい領域へとはいれるし、またその領域が大きな恩恵をもたらしてくれると信じています。
さて、今年よい結果が出せたらいいな。
[1回]
PR