人は都合よく今必要なものを与えてくれないのは当たり前なのだけれど、さも自分が知っている正解が相手にそのまま当てはまれば君もちゃんとした人間になれると言わんとばかりの言いよう。
自分ももっと反省しなければいけないと思うのは、いつも自分の考えを言う前に人の話を聞かなければいけないということ。
でもそれはとても難しい。
まず自分から語るけれど、それが相手の口を封じることもある。
基本は自分の心を裸にするのが私のやり方なのだけど、そのやり方が期待しているのとは逆の反応を示すことだってある。
人によってペースは違う。口を開くにも時間がかかる人もいる。
一日二日じっと待ってなきゃいけない人だっている。
人は人にかまってやれる時間が惜しく、やることがあればあるほどかまえない。
自分がやるべきことは自分が一番わかっているのにもかかわらず他人が気になる。
ちょっとやれば相手は勝手に動いていくものだとたかをくくって、望む方向にいかない相手を叱責する。
あっちでもこっちでも人は人を馬鹿にし合っているのは何故だろう。
それともネットが酷いのか、それともそれが日本人の性根なのか、世界共通なのか。
「菊と刀」という本が読めなかった。
読んでいる途中動悸がして、苛立ちが最高値に達し、文字が入ってこなかった。
全部ページはめくったけれど、それは読んでいるということにはならない。
あそこには自分が味わった日本人の嫌な部分が書かれている。
色々と過去のことが一気に噴出してきて、自分が制御できなくなった。
「言っていることは正しいが、やっていることは間違っている」
そんなセリフが先日見てきた舞台であった。
人間は正論を振りかざす時、論理性の密度を高めれば高めるほど己を軽視する。
例えば相手への叱責、罵倒、嘲笑、卑下、蔑み、などなど、これらの行動は全て著しい欠如を意味する。
それは人間性のみならず、知性の欠如も意味する。
人は心によって、年齢によって、知識によって言葉の意味を変えていく。
例えば若い者は馬鹿だと言った時点で未来から隔絶される。もうどこへも行けず停滞する。だって、そのような人間は子供と真剣にお話したことがない人なのだもの。
世の中には様々な思惑がある。知識がないために大損をすることは多々ある。
他者が人の心に添うことはとても難しい。
だけれど可能な限り寄り添おうとすることは努力次第でできる。
学びを人に押し付けようとすれば拒絶されるのは当たり前。
学びを諭そうとするには、よほど相手の心に寄り添ってないと不可能。
他者へ対し、特に赤の他人に対し労力が必要な事は、だいたい今の人たちは放棄しているか、心折れている。
難しいことだから。
皆口々に勝手なことを言い、そこに矛盾が生じている場合、さてどう動く?
立ち止まるか、右往左往するか。どちらも自分がない。
私も心が辛くて何も出来ないことは多々あるけれど、一つだけ言えるとしたら、もうちょっとやりたいこと本気でやればいいんじゃないかな? ってことぐらいだ。
正しいことは、芳醇な経験の先にこそあるもので、それは最も弱いものに対し、どれだけ力を与えられるかだと思っている。
私自身守ろうとしていることは「持っていないものに対してこそ、持っているものが与えていくべきだ」ということ。
そのことは目標にもなっている。
そのために巨大な力を手に入れたい。
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