~行く前~
前回東京に行った時池袋をふらふらと探索ついでに歩いていたら、綺麗な建物だなと入った場所が東京芸術劇場。
そこで見たCMに釘付けになった。
一生の糧になるかもしれないという妙な直感。
金銭面でいけるかどうかわからなかったけど、ぎりぎり帰ってこれる計算。
ロベール・ルパージュ「887」を見に行く。
その話をとある場所でしたら、「え? ハバナじゃん。お店の電話番号も887入ってるし」とマスター。
マスターがやっているお店の一つが「HABANA」という名前。
「え? ああっ! ハバナですね! 奇遇ですね。びっくりした」
意図してないところで、こういう繋がりって出てくる。ちなみに舞台のほうは小さい頃に本人が住んでいたアパートの名前なのだそうだ。
マスターの店に立ち寄ったのもちょっとした偶然。
日曜だったし他のお店が閉まっていたので、開いているそこへ。
「最近閉め気味だったし、ちょうど今日開けてたんだよ」
日曜時々閉まっていることもあるから、入って飲めたのも何かの縁。
ついでに東京では友達も舞台をやるみたいなので、ちょうどよく日程が合うので同時に鑑賞。それも池袋。
すーっと何かが面白いように繋がる瞬間ってある。
何を得て帰ってくるのか、今までとは違った道が見えてきそう。
~行った後~
ロベール・ルパージュ「887」と知り合いの演劇。
舞台で「見たい」なんて思うことは、人生の中でまずなかったのだけど、これだけは直感的に「見なきゃ!」と不思議と思ったのだった。
さて、見てよかったかって言うと、本当によかったなと、わざわざ東京まで行ったかいがあったと、充実感を抱いている。
例えば金さえ使えばもっといい演出が出来るとか、もっと面白いものができるとか、そういう幻想を打ち砕いてくれる。
最低限のもので、最大限の演出をする。まるで手品を見ているようだった。
そこにアイディアがあり想像力があり創造性がある。
英語とフランス語の両方でやるというのも面白くて、その差異から生まれてくるアイデンティティもハッキリある。
ミニチュアのようなセットに映像を駆使して全て一人でやる。
ミニチュアを手持ちのカメラ(スマホのようなもの)で映し出して、後ろのスクリーンに自分と一緒に映したり細かに作りこまれたミニチュアの世界を一つの映像世界に落とし込んだり、光の使い方、絶妙だった。アパートを開いたら自室になるとか。
半生を本人が一人で演じていくという舞台。
記憶をテーマにしていたけれど、むしろその記憶の曖昧さから生まれてくる一個人としての立ち位置や可笑しさ曖昧さ、誰かと自分の関係性などが浮かび上がってくる。
それを東京でやるという面白さもあった。同じ言語圏だと差異があったとしても、それを一つの自らへのテーマとして受け取ることは難しい。でも言葉の違いの中で受け取ると、たちまちテーマとして受け取ることが出来る。
東京の人たちの危うさと言ったら、微妙な差異の中で生まれてくる様々なテーマを無関心さと不干渉さで流し込み、守るべきであろうものたちを犯さないという曖昧な共通意識で成り立っている。でもそれって何なのか、自分たちで問い詰めたことは一切ないだろう。
とにかく札幌から行くと東京はどこもかしこも狭い。ビル高い。緑ない。碁盤の目で成り立っている札幌から行くと道曲がりすぎ。迷う。まるで迷路。気が滅入ってくる。宝探しのような楽しみはあるかもしれないし「逆に僕、道の形とかで覚えちゃうから札幌みたいなきちんとした場所迷うんですよね。特徴ないでしょ」なんて言っていた人もいた。こういうのも一つの個性だと感じる。
記憶の旅はくねくねと曲がり捻られたような道を歩いて行くに等しい。
「小さな頃に住んでいた家の電話番号は覚えているが初恋の人の名前は忘れている」
なんて舞台では言っていたけど、そういや初恋、幼稚園の頃かな?
近所に住んでいた「さなえ」ちゃんだったような。
でもその次の小学六年生の頃が曖昧。
「りえ」だった気がするけど、ぼやけている。
なんでだろう。その子はとても好きだったのに。
こうして様々な自分に対してのことは曖昧になっていく。
曖昧になっていった上で、今自分はどのようにして成り立っているのか、自分自身とは何か、年をとってから考え始める人は少ない。
だから外部の物を借りてきて、まるで自分のアイデンティティのようにしている。
その中で染み付いているものがある。言語が違おうと思想が違おうと何が正しかろうと間違っていようと、ちゃんと染み付いているものがある。
そのことをちゃんと感じられるか、ということも大事なのだけど、その感性が残っていれば、いくらでも立ち上がることはできるのだと感じさせてくれた舞台でもあった。
とにかく二時間みっちり、素敵な世界にいた。
ほんの少しの光の加減で、光の当て方で、舞台の世界は大きく変化していく。
このことは自分が今見ている現実世界にも応用できることだった。
さて、知り合いの演劇。
こいつはいただけなかった。
自分と同じように狭い世界観で一つの空間を演出する。
それはいいんだ。
でも、最もいけないのは、作品の中で役者が否定した物事を、今自分たちがそっくりそのまま演じてしまい、その矛盾を通してしまうということが、シナリオの構成としてぶち壊れていた。
ようはシナリオ発表の段階で、誰も突っ込む人がいなかった、ということを証明してしまったということは、その劇団そのものに自浄作用がないことを意味している。
狭い狭い体育会系の縦世界だけど、その構図がシナリオへの意見すら阻んでいるのだとしたら、腐っているって言える。もしくは下の人たちの勉強不足。
でも逆に「あれ? これ自分でもお金取れるじゃん」という気持ちすら思い起こさせてくれた。
少人数でやる小さな舞台っていうのも面白いかもしれない。
ちょっとだけ視野に入り始めている。
自分にとっての大きなテーマは、これから失われていく五感と第六感の感覚機能をどのようにして保存していけばいいのだろう、というのがある。
三十か四十年後には、人間じゃない人間が育ってくる。その人たちに最終的に何を伝えないといけないのか、どんな感覚なのかを今から想像して残していかないといけない。なんせ、現在の技術では電気信号だけで塩分感じるってほどなんだから、手の施しようがないかもしれないし、自分だっておかしくなるかもしれない。
まだ自分にとって幸せなのは、生涯かけてやるべきことが見つかっているってことだ。
その幸福を自分なりに追い求めていければ、死ぬ間際あたりに何かを伝えることができるかもしれないと思っている。
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