例えば言われて当たり前、「そんなこと誰でも知ってるし」ということが実は行動として出来ていないことは多々ある。
強く念じていれば、既に頭の中に入っていれば、「常識」として自分を省みることを疎かにしてしまうことは、物凄く多く見られる。
しかし何故「頭でわかったもの」は「客観性を失う」のだろう。
「論語読みの論語知らず」とは言うけれど、常識を日々の己の行為の中にしっかりと落とし込むことはとてもとても難しいことだ。
そして「常識だ」と言った次の瞬間に堂々と出来ていないことをアピールすることもあるから、正直唖然とすることがある。
出来ていると思い込んでいるのか、それとも知っているだけでいいのか、そういう人たちの頭の中が少しわからない。
人間一度思い込んだことを現実を目の前にして修正できないのは、もはや頭を使っていないに等しい。
人間、ある一方には得意で、ある一方には疎いということがある。
言葉が感情を扱っているとわかっても、相手がどういう気持ちなのか、どういう気持ちになるのか、ましてや異性を口説くとかなると、相当高度な言語感覚が必要になるけれど、ある一方には開けていて、ある一方が閉じていることがある。
口説くのは上手でも論理は弱い。論理は強くとも口説くのは弱い。
別に口説くというのは異性じゃなくてもよい。同性を惹き付けられるか、ということにも関わってくる。
それは知識で得るよりもまず、実体験で得ていかなければならないこともあるし、知識をきちんと手に入れていかなければいけないこともある。
この二つが合わさって、ようやくバランスが取れてくる。
このことは常識なのだが身についたと思った途端全て見失っている。
特に感覚的な言葉の場合、個人個人によって違うのだから。
昔から行為の伴わない知識と、知識の伴わない行為、というのは学のないものだとされたし、人から学ぶことをしない人間は独善性を助長させるだけだということを言われてきた。
どんな人間だろうと学ぶところは大きい。
例えば幼稚園児だって、大人が気がつかなかった凄い視点を持つことがあるし、自分の知らないことを知っている人間の体験や知識から新しい世界が開けることがある。
この手のものを手に入れるには「こうである」という思い込みを極力自分の内省によって排除していかなければいけない。
特に学問ばっかりやっている連中は時折現実をすっ飛んで、現場の理屈を否定してくることもあるから驚く。
正しいことは確かに論理上では固まってくる。
問題はそこから先。現実の人間で運用可能なのか、はたして確実に正しいことはより多くの人にとって正しいのか。
その正しさは人を不幸にしたり貶めたりすることはないだろうか。
それを知るためには本ではわからない。正論では見えてこない。正しさが導く悪が存在する限り、少なくとも常識的な事を常識だと笑い飛ばすような真似をしてはいけない。
人のことは言えても、自分のことはわからない。
多くの人がそうであるし、特にこの手の己の欠点を無視する人間にはナルシシズムが見当たるが、謙虚さをアピールすることによって相手を貶めることもあるのだから、本当に常識っていうのは常識だと思った途端に常識ではなくなるのですよ。
形式が間違っているから無礼ということも当てはまらない場合もあるし、相手側の最大限の思いやりが含まれていることだって沢山ある。
型にはめだすと、はみ出すものばかりが多くなって困る。
人はそれだけ扱いにくいし、どんな天才も一部の馬鹿に駆逐されることがある。
でもそんな災難があったとしても、多少自業自得な面があることは、色んな人を見ていて想うことだ。
己が出す不協和音のようなノイズは、よほど自分に厳しくない限り出るんだから。
[0回]
PR