夢を見るのは大変な勇気が必要で、維持させるための精神力がどれほどのものになるかなど、なかなか想像がつかないものです。
さて、一ヶ月あたり4時間ぐらいのバイトを25日程度入ったとして自給850円でも8万6千円が手に入ります。
現在の私の文字での収入は、安定しているわけでもなく平均的にそこまでにははるかに至らない金額で、「自分はやれる」という信心ひとつで続けているわけです。
普通に社会生活を送りそこに浸っている人間にとって、この実質上の数字の圧倒的な差と、いつ芽が出るかわからない不安定な状況には当然何かしらの勘定、天秤がけが入り、稼げもしないのに続けることはおかしいし、極めてバカらしい行為を送っているのだと思うことでしょう。
私もふとそう思うことがあります。
何度も止めようと思いました。
芸の世界というのは何百万もの死体の上に立てる本当に優れた人間のみが食っていけるような世界といったほうが解りやすいし、簡単に言えば完全出来高実力主義の場所でありますから、食えない人間は何かしら欠点があります。
このご時勢、総合的な力が必要になりますし、例えばいくら文章が凄くても売り込む力がなければ気づかれもしないのです。
しかし凄くなくとも愚直に続ける人もいます。
それを支えているのがわずかな希望なのだと思います。
まだできる。まだやりたい。
そんな気持ち一つで続けていて、お金の勘定などは二の次なんだと思います。
例えば役者なんかで役作りの為に歯を抜く人がいますが、普通の人から考えれば「何考えてるの。たった一本の役作りの為に永久歯なくすなんて」などと考えるでしょう。
私だって人生一つ賭けている。
この場に来て、はいすいません、もう止めますじゃ示しがつかない。
のたれ死ぬかすんでのところで這いつくばっています。
その続ける理由は何なのかなと思うことがあります。
バイトで稼げる金すらも稼げない自分は一体何者なのだろう、と。
比較をしだして自分を見ると眩暈がしそうです。
世の中に出ると常に何かと比較されて見られます。
一番大事なのは比較せずに自らの長所をどんどん伸ばしていくことだと様々なところで聞かされながらも、他人を見るときは何かを基準にして見ているわけです。
極めていやらしいですよね。
でもそういうもんです。
なのでやるからには、ある一定の基準をクリアする必要はある。
その上でさらにプラスアルファがないといけなくなる。
まるで永遠の自分探しです。
それなのに貴重な人生の時間を浪費しているかのような愚行を止めない。
そう。役作りの為に人体改造すらする役者よりもバカで自分の財産を守らず投げ打ってでも全てを曝け出してでもやり続けるのが小説家なのかもしれないなと、いや、少なくとも何も持っていない自分はそうしなきゃいけないのではないかと思うわけです。
先日壬生寺で狂言を見ていたとき、生まれて初めて流れ星を見たんです。
近くの神社で願い事をして、その後偶然視界の片隅に入った流れ星。
小説頑張りますのでどうかよろしくお願いします応援してくださいと言ってきた後に流れたものですから、これは幸先がよいとバカ正直に自分の幸運と実力を信じているわけです。
幸福堂のきんつばに、お多福豆。
つい買って食べました。
ここ京都は本当に縁起を担ぐものが多くことあるごとに願掛けをしています。
札幌にいた頃は願を掛けることも少なかったのですが、格段に多くなりました。
もちろんそれだけではいけないのですが、少なくとも気持ちは向きやすくはなっています。
「ああ、あいつはバカだね」
言われ続けてきたことです。
この年までろくに働きもせずに小説書いているなんてね、なんて目で見られるのが痛いほどわかるものなのです。
でも、止めない。
やると決めたからには、ここに骨を埋めないといけない。
何も成せぬまま止めるのだとしたら、それはきっと死ぬときでしょう。
簡単に死ぬと口に出すのはおこがましいことではありますが、そのくらいの覚悟はあります。
バカの極み。
自分はバカだと思いますが、まだもう少し足りない。
もう少しバカになる必要があるのだと感じました。
成りきれてないから、勢いがないのだと。
専門業を極めていくということは、バカの極みにまで達しないといけないのですよ。
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