年始のNHKの番組でこれからの日本のことを若者を交えて討論する番組があった。
だが私にはとても違和感があり、三十分ほど見たところで消してしまった。
ゲストコメンテーターでさえ自分のことを話すばかりで先行きが見えそうもなかった。
ああ、優れている若い世代のリーダーとは、まだこの程度のものか、と己の分際の考えずがっかりしたものだ。
今の若い者が考えることは、自らに利益のあることは何か、いや、既に上の世代が利害そのもので動いているせいか、自分が得するにはどう生きたらいいのか、という観点でしか質問をぶつけていないことにげんなりしてすぐにテレビを消してしまった。
今の年になって気がついたことなのだが、実は個人の能力を最大限に生かすためにはどうしても集団の機能を借りるしかない。
逆に言えば今の既存の集団が個人に対して個性を生かすどころかその個性を死に絶えさせて集団の為に機能性を強いている、いわばチャップリンのモダンタイムスのような世界になっているところに理解できない鬱憤を溜め込んでいるのだろう。
今の若者が憤っているのは時代に伴う世代間意識格差といえばそれまでだが、もっと突っ込んで言えば今の自分の能力が生かしきれずに死に絶えてしまい、このまま上の命令に従うまま希望も意志も吸い取られて生きるしかばねのように過ごしていくしか手段はないのではないか、もっと自分の能力や個性を生かしていきいきして生きていく術がもしかしてあるのではないか、しかし出来ない現状があるという憤りから来るものであるとは私は理解しているものの、彼らの観点は追い込まれているせいか、自分の利益になるものは何かという渇望、飢えしか感じない。
このままでは国などよくなるはずがない。
と、決め付けてしまうのも早いが、きっと苦しい時間を過ごした東北の人たちの中に偉人が必ず出てくるだろうと待って彼らの活躍に希望を寄せるのも間違っている。
今生きている、二十歳よりも一回り上の世代は一体何を目的にして動くべきなのか。
三十二歳以上ともなれば結婚もして子供も出来て、家庭のことを考え、収入を考え、今の生活を壊さず子供を育て上げるにはという収入に対するプランも出来てきて、余計な出費、ましてや赤の他人の人生に対する投資や努力など馬鹿げたことだと思うような年になってくる。
だがそれを繰り返していてはこの国などよくはならないのだ。
貨幣を主体とする国は当然利害関係が重んじられる。
その国で生きる人間も得があるか損があるかで付き合う人間が決まる。
それが精神的なものではなく、お金の関係性によって成り立つことすらある。
治安が成り立っていない、もしくは暴力的な手段がまかり通るなら力関係によって成り立つだろう。
今や現代社会は歪んだ正義感で成り立つものによって傲慢さを増しているが、我々が本来「幸福」とすべきものは共産主義的な平等でもなく、もっとも崇高な精神的な尊厳と尊敬の意識を保ち続けるところにあった。
しかし歴史を知らない私でも人類はシンプルな感情に立ち返り争いを続けていると知っている。
そして正義あるところに利害関係を見つけ悪がはびこることも避けられない定めであろう。
だが私は訴えたい。
もし君を助けるたった一人の他人でもあったのだとしたら、君はその人のことを忘れず、恩返しはすべてできないにしろ、欠片でも返していけと。
それが次の世代へ自分が生きてきた証を示す大きな墓標になるのだということを、やがては死ぬことを考えられない世代へ送りたい。
それが次の世代へ不幸を強いることがないのであれば、私は正義とは言わず、自らが考える他者の幸福の為に尽くしなさいと言いたい。
それを訴える理由を今から書く。
先ほども書いた通り、個人の才能や個性を最大限に生かすのは集団の機能である。
これは個人が個人の為に集団を利用しようとしては成り立たず、個人が集団の為に尽くし、集団の幸福の為に行動してこそ彼らも個人の為に何とかしようと動く精神作用を言っている。
これが逆だと、あいつもこうしているのだから、俺らも別にいいじゃんという足の引っ張り合いになる。
当然全を最大限行っていると思っていてもそれを利用しようとする悪も後を絶たないだろう。
だがそれを追随してしまってはいけない。
そういう他者を利用しようとする人間が損をするのだという行動例を自分で作っていけばいいのだ。
責めるのではなく、実力でねじ伏せる。
いつだって歴史は強者によって塗り替えられてきた。
その手段は様々だが、我らは利害によって成り立ってはいけない。
それは悪は悪を追随するという構図を社会上に作ってしまうからだ。
善と悪の概念は当然社会構図によって変わるだろう。
幸福の概念さえねじ伏せられ、捻じ曲げられられる。
私たちは「吸い取るもの」と「与えるもの」を厳密に考えていかなくてはいけない。
私も恐怖のあまり保守的な考えに浸り、厳しい評価を与える人々に対抗する術を持たぬシステムの中で悩む人間の気持ちは、ほんの少しだけ考えを及ばすことが出来る。
経済もまた、哲学であるといっていい。
だが実際には数字が支配する世界において、彼らの信じているものは数字であって、その奥にある複雑な構成をしている人間たちの精神作用ではない。
正直言って、私も偉いことを言えた身分ではない。
沢山の人間から恨みを買っている。
だからそれを負い目に感じているし、いつか返したいと思い行動している。
だが我々は個人の為ではなく集団の機能性を考えて行動しなければいけない。
自分の為に利用する集団ではなく、個々人のために機能する集団の為に尽くしていくのだ。
この方法でしか、新しい価値概念を形成する未来の集団を作ることが出来ない。
私たちは既存の価値観の中から利用できるものを選び取って自分の利益とするような考え方を止めなければ、また上の世代の考え方を引き継いだ新たな権力者が同じ苦痛を強いて国を形成するだろう。
個人との決着を付けるのは自分自身である。
その後は、他社の為に尽くさねば、永遠に君を生かす人間は現れはしない。
自らを生かすために集団の機能性へ尽くせ。
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