先日、「会話はキャッチボールだから」と言っていた人がいた。
私はここまで生きてきて、本当にそうなのかなと思う部分がある。
少なくとも「キャッチボール」だと思っていたら社会に出て本当に痛い目に合う。
目をつけられ嫌がらせをされたり、こんこんと説教をされたり、ねちねちとやりこめられるということだってあった。
それは「配慮」というものが相手にとってまったく感じられず、こいつは吊るし上げなきゃいかん、という気持ちにさせたのが原因だ。
そう考えると、とても言葉のやり取りは「キャッチボール」ではない。
ストレートを投げたらいきなり怒る人だっているんだから。
そんな極端な例だってある。
いつも他の人で通じていたものがその人には通じないというのはよくあることだ。
特に心が絡んでくる場合「それ質問したらいけないんじゃないの?」という事情は、自分が投げかけよう、自分が知ろう、という意識では絶対に把握できない。
しかし相手のことを知るには黙っていてはどうにもならない。
言葉を投げかけなければいけないが、それはしつこく繰り返すが「キャッチボール」ではない。
相手からうまく言葉を引き出すには「共感」や「安心感」という作用を相手に与えなければいけない。
この「共感」「安心感」は「価値観」に関わってくるため、自分だけの立場ではまず会話がだんだんと尻すぼみになってくる。
言葉で説明するととても難しく感じるが、ようは経験上体感していること、苦労していること、そんな相手の事情を軽んじたり無視したりすると、機嫌をまず損ねられるということだ。
自分が投げるのではなく、気持ちよく投げてもらうために、受け取ってもらうために推し量りながら会話を進めないといけない。
じゃなければ大抵は敬遠されてしまうのだから。
どうしても中には大きな価値観の違いがあって合わなさ過ぎるという事例だってある。
それはしょうがない。
だって合わない人は当然いて、私たちはその人に心を砕くよりも、やらなければいけないことがたくさんあるのだから。
実は会話って、会話をしながら自分を確認しているんじゃないかと思うことがよくある。
その言葉は相手のことを考えているのではなく、そう見せかけて自分のことを確認していることだってかなりあるはずだ。
だから少なくとも私たちは会話をし始めた時点では「交換」をしている。
私はこれを持っています。あなたは何を持っていますか?
その繰り返しの中で繊細な事情には踏み込まずにいようというのは難しい。
踏み込みすぎは当然いけないし、そこはどれだけ親しいかに関わってくる。
基本人の心は見えないから言葉を交わしているわけであって、無礼になることを100%回避することはエスパーになって読心術を身に着けるしかない。
だから傷つけあうことも時にはしょうがないことなんだと考えている。
ようは傷つけあってしまったらどうするのか。
そこで自分が相手を許せる気持ちを持てるのか。
深い絆になるかどうかは、いつだって共に落ち込んでしまった後に存在する。
私たちの使う言葉は同じ言葉でも重みがそれぞれ違う。
何故違うのか、どうして違ってくるのか、本当の言葉の難しさはこの点に絞られてくる。
その「言葉の難しさ」は「心の難しさ」と完全にイコールでもある。
どんなに親しくなろうと私たちは他人同士。
日々変化しながら進んでいっている。
私たちの言葉は「交換」され、ようやくわかってくる。
自らの言葉は「体験」され、ようやくわかってくる。
一日経てば私たちの言葉の意味は大きく変わる事だってある。
伝えること、伝えられるようにすること、これがとても人との間には重要な事になる。
だから会話をするとき「キャッチボール」をしてはいけませんよ、謙虚な気持ちで「交換し合いましょう」と私は考えている。
と、言っても人間は感情の生き物。
怒る時は怒ってしまうのだけれどね。
日々、反省。
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