昔、売文をしようと思っていた。
お金が欲しい、という考え方で小説もロクに読んでない、小学生の作文レベルで、そのようなことを考えていた。
色々経験して、本当に酷いことを言われまくって、現実見ろとかそういうレベルではなく人格まで否定されるようなレベルで言われて、それでここまで来た。
何のために自分はこのような道を選び取ってきたのか。
正社員にもならずバイトで繋ぎ、職歴はだいたい疑いの目で見られる。会社が潰れ、店が潰れ、派遣では切られ、職歴は結構「一身上の都合で退職」というレベルと変わらないくらいの移りよう。
日本ではだいたい、このような忠誠心が見当たらない職歴は真っ黒だと見られるし、人間性まで疑われるような勢いでまず見られる。
社会からも落ちこぼれ、付き合う女性には蔑まれ、自分が弱かったせいで類は友を呼び、本当に踏んだり蹴ったりな状態が続いたけれど、それも立派な財産として生かせる。
何事も芸の肥やし。文章を書き始めた二十代前半から、そう思って色々捨て身で経験してきた。
といっても、たいしたレベルじゃないかもしれないが、面白い人生にはなっている。
先が見えないと不安になるのは当たり前だろう。
「先」って何だろう。
希望じゃなくて今ある現実。
今時分がどういう状態で、どうなればいいのか。その手順をしっかり考えていく。
色々試すってことは悪いことじゃない。
やっぱり駄目だった。それでも回りまわって、これがいい、にぶち当たれば大収穫だ。
つまり何故駄目なのかのメカニズムをちゃんと自分で理解すれば、先は見えてくる。
やらない。思うだけ。すぐ諦める。愚痴を言う。口だけになってくる。面倒になってくる。
人間誰しも、こんな風になりがちだ。だから少しずつでも自分を進ませる自らの精神力が必要になってくる。
今自分は妙な気分になっている。
一つお話を書くごとに違う現実に来たのではないかという錯覚。
見えている現実空間はほんの少しだけ摩り替わって違う場所なんじゃないかという感覚。
確実に何かが起こっている。確実に変化が起きている。
そんな強い確信がある。
成功するって、やはり一人の力じゃどうにもならない。
様々な人たちの協力があって初めて成り立つんだと、しみじみ思う。
これからは余計に感じることになるだろう。
協力してくれる人の存在は、まさに天運とも言っていい。ただ努力しただけでは見つからないからとても難しい。
誰が一番協力してくれて、かつその協力者に対して惜しみない努力を捧げられるのか、が一番大事な事のように思う。
協力してくれました。ありがとうございました。おしまい。
そんな親御のような存在は社会において現れることは、まずない。
何かの利益を見出して協力してくれるんだ。
自分にその価値があるのかどうか。自分で証明しなければ、協力してくれようとする人も離れていく。
だから結局は誰かを助けるために自ずから努力をする、何事も積極的にぶち当たっていくという姿勢じゃないと駄目なのかもしれない。
世の中の欺瞞を見抜き、社会をたくましく生きていくには、とにかく自立していくしかない。
自立の辞書の意味はこうなる。
「他からの支配や助力を受けずに、存在すること。(デジタル大辞泉)」
これが難しい。
助力というのは社会で生きている限り、やはり何かの存在あっての自分となるから、問題は「支配」の部分だ。
自らが捉われているものから自分を解放できるのか、という問題がここにある。
そこに気がつけたなら、ようやく支配から逃れることができる。
そして自立できたのなら、あえて目の前に現れたものに乗ってみるっていう手もあるし、怪しい臭いがしたら引くという勇気も持てる。
自分の成すべき何かが見えていたら、簡単に見えてくるんだ。
そうして目的を果たしていく。
素敵な人生だと思えるようになる。
人も愛せるようになるさ。
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