2,3ヶ月前に大吉を引いて、よしやったぞこれから安泰に違いないと思いつつ、待ちぼうけで鼻ほじくりながらチャンスでも巡ってこねぇかなと考えていた私が同じ八坂神社で凶を引きました。
凶そのものを引いたのは数年ぶりだったとは思いますけれど、ずたぼろには書かれてはいない。
勇気を持てとか、努力で諸事なんとかなるみたいなことが書かれていて、むしろ絶望的な凶ではなく、お前なんとかしろよみたいな感じで書かれていたのが唯一の救いというか、こっちにきて、ちょっとお仕事しようと思ってバイトでもしながらちょこちょこ動こうとか考えてて、書き物ではないお仕事決まった矢先に凶を引くとか、私が書き物さぼっていたのを見通していたかのごとく、というか、色々凶の意味を考えていて、努力すればなんとかなるみたいなことを仕事のところに書かれていると、そりゃーもう書き物のことしか思い当たらず、書き物では何一つ進んでいませんよということが、どう考えても言い当てられているような気がするのです。
ということで、凶を引いて、その意味をずっと考えていたのですが、人間はどうしても自分の思い当たる範囲で物事を考えている。
人間は目で物を見ているのではなく、脳で世界を断定している。
知覚で世界を感じていながら、脳で認識を慣習化している。
これは逃れられぬ癖なのですが、それゆえに私だって自分の経験上おみくじがたとえ迷信であろうと、それなりに因果関係を考えるわけじゃないですか。
そうしたらやっぱり書き物が運命、命運、命数、それらの中に含まれていて、ちょっと小金稼いで生き延びたとしても私の生涯でやるべき仕事は何一つ進んでいないのだと二礼二拍手一礼でしっかりお願いした後引いたおみくじに書かれていればそりゃー考えるわけじゃないですか。
現段階では変なこと書きますけれどね、人間って生涯にすべきことが決まっていると思っているんです。
というか、万人に対する運命論者ではないのですが、成すべきことを悟った人間は、神の敷いたレールの上を左右にぶれながら歩いていくのだと、何か信じているわけです。
というのも、変な話、私の親があの性格でなければ今京都にいることは不可能であったし、今まであれがなければ、これはない、ということを何かしら意識させられているのです。
人間体験したことでなければ語ることはできないわけですから、口先三寸であろうとテクニックってのは積み重なるわけでしょ。
そりゃあね、人間努力とか行動の積み重ねの上に人生が成り立っているわけですが、すべて努力どおりになったり、思い通りになったりするわけがなく、それなりに人の気まぐれや自分の感情と相手の感情の狭間でサイコロを転がしたようにあっちへいったりこっちへいったりするものですから、狭い意味では努力しだいでなんとかなるとか思いながらも、多くの小説が題材にしている理不尽さに共感しつつ、人生を重ね合わせて考えるものでしょ。
ですから、自分の意思ではどうにもならなかった、生まれ持った境遇とか、人の巡り会わせとか、そんなものを一つ一つ考えながら、人生の意味や生まれ持った意義を考え出すのが人間だと思うわけです。
そんな感じでぐだぐだと長くなりましたが、ようは一行でまとめれば、「書かずして未来なし」であり、一言でまとめれば「書け」なのです。
それをおみくじで言われたのだなと色々考えた結果そうなったのです。
こうして無駄な文章を書いて、いかにも長く無駄な、でもタランティーノには及びもしない、どうでもいい日常風景の面白さだと思い込んでいることを書いていると、やっぱりこの日記もどうにもなるものでもなし、酒なんか飲んでふてくされている場合じゃないぞという感じで結局は重要な文章は三行だけで終わる今日の日記を終わろうかなと思いつつ、そういえば今日はどうしてこんな日記を書きたくなったかというと、梅小路公園で夜の紅葉ライトアップを見て京都駅前で酒を飲みながら、ふと考え事が深くなったのでこうやって書いているのですよという読みづらい日記を書く次第になったわけです。
お付き合いくださった皆様、今日はありがとうございました。
ほろ酔いの私はこれから寝ます。
[2回]
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