電子データにしたほうがかさばらないし、すっきりする。
生涯の親友が何人もできないように、生涯付き合っていきたい書と出会うのもまた少ない。
だから、これから「物質として存在する本」が空間的にも量的にも重量的にもマイナスに働く。
本が好きな人は図書館に通い、いらない本はすぐに古本屋に売り渡し、次々と読み続けるかもしれない。
私は本を読むスピードがとても遅い。
だから年間数百冊を読むなんて夢のまた夢に近い。
生涯で読める本の数も決まってくるだろう。
速読できるような人でもない限り、普通は私と一緒だろう。
だからこそ選別しないといけない。
良書を作らないといけない。残さないといけない。
「良書とは、期待を持って開き、利益を修得して閉じる書物である。」 (オルコット)
時代がこうなっていきますと分析されたからなんだというのだろう。
分析官が多くても軍師がいなければどうにもならないし、軍師のいる組織にやられっぱなし。
ましてや時代を切り開こうとするのではなく、その流れに従うだなんて。
ひらめくこと光の如し。
立ち向かうこと水の如し。
前進すること風の如し。
希望を持つこと火の如し。
大志を持つこと津波の如し。
人となすこと和を持って中庸を目指すべし。
起こってしまったことを嘆くよりも、起こっても揺らがない確固たるものを作ろう。
本当に職人なら、常にいいものを作りたいと思うはず。
現実を見たら何も起こってはいない。
だから未来に希望を抱かないといけない。
希望を持ち続けるだけの絶え間ない努力が必要なんだ。
人は死ぬだろ。
いつ死ぬかわからない。
最後の瞬間人は何を残す?
自分だってどんなに偉そうなことを言ったって骨しか残らない。
希望ってなんだろう。
今は見えもしないものを具現化する努力なんじゃないのか?
時代の考察に鋭くなるよりも、時代に台頭する力が欲しい。
希望は必要だよ。たとえ小さな希望でも。
だって生きているうちから「過去しか見てない人生」なんて寂しいだろ。
そんな死んだような人生過ごしていて何が楽しい。
誰かの笑顔を見たいでしょう。
誰かに「あなたと出会えて幸せ」と言われたいでしょう。
私がお話を書くのは、もう「誰かがそのうちするだろう」と年数を過ごしていくのが嫌だからだよ。
迷ったって時間は過ぎる。
疲れて立ち止まることはあるけれど、待ってたって誰もやりゃあしない。
人類にロマンチストが大事なのは、熱狂的なロマンチシズムが本当にそれをやろうと試みてしまうからだよ。
「星が綺麗。あの星に手が届いたらいいのに」
「金は儲かるから、なんとか他の金属から金を作れないだろうか」
そんな子供みたいな発想が何百年と積み重なってきて、人類は進歩してきたんじゃないのか?
次の世代に残すものは大人が常に決めている。
ゲーム、映像、漫画、エンターテイメントに変えることのできない小説はその価値を失っていくだろう。
電子の波の中で「過去に何が存在したか」すらも忘れ去られるだろう。
こう考えると、現実は劇場よりも不確かなもので、事実は作為的な幻に満ちている。
これからの小説家の役割は大衆を一個の人格とみなしてシナリオを書くことだね。
劇場に生きる大衆の意識が常に流されていくものならば、その流れを制御する意識体になればいい。
なぜか今猛烈に悲しい。
追記:
口論すると、いつも悲しい。
無駄な時間だけ過ぎて、互いに歩み寄りがなくて、不毛とも言えるやりとりを繰り返す。
親と子供は、永遠に親と子供。
どこでもかしこでも同じことで悩んでいるらしい。
昨日門限のことで他人の親に相談されました。
親は死ぬまで親の気持ち。
これは感涙に溢れる想いがある。
親の気持ち、子は知らず、子供は親不孝をして一人前になるものなのかもしれない。
子供は親の保護を受けているけれど、だからといって一個人の人生は自分自身で決めていくべきだ。
常識やモラルというものがあって、それらがよりよい公平感からくる倫理でもって判断すべきを、いつの間にか個人的な感情と多数論に摩り替えられたりしても、親は親、子供は子供。
デジタルデータの利便性は、端末によって加速される。
物という形にこだわらなくても、「データ」という形を徹底すれば、私たちの生活は驚くほど変化するだろう。
スーパーも百貨店も地域情報もニュースも図書館も。
スーパーの安売り、犯罪の情報、百貨店での物産展のイチオシ、書店・図書館でのデータ配信、食物の生産者・おすすめレシピ、IDキー、端末をかざすだけで欲しいものが手に入る。
そういう時代になる。
それと同時に、反比例して加速するものがある。
「人との心のつながり」
これも「利便化」される。
間違いなく。
[2回]
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