ダメなタイプってものの中に、妙な細かいところにこだわりすぎているというのが挙げられる。特に何かに影響を受けすぎていて、人に伝わらない細かさにこだわり続け、「伝える」ということをまったく無視している人。
伝えたらどのように解釈されるのかの想像力がなく、他人に伝える実践が少ないため、余計に独善的な事を繰り返し、ドツボにはまっていることにも気がつかない人。
結構この手のタイプは多くって、自分は間違っていないとこだわっている人が多い。
残念ながらそれは自信のなさの裏返しであって、どんなにスタイルを変えようとしてもやっぱり自分というのは残る。
それで、自分を変えることに恐怖を抱いている人がいて、自分が自分でなくなってしまうのではないかとやってもいないのに尻込みする人がいるけれど、別人になるという発想でいるからできないのであって、「適応力を鍛える」とすればなんら問題はない。
世の中で生き残るためには「相手が欲しいものをさっと作れる」能力が必要だ。
その能力は達人レベルじゃなくてもいい。大満足というレベルじゃなくてもいい。相手が普通にしていられる程度のレベルでいいのだ。それをうまくやれば生き残れる。
ただ、どうして独善的になってしまうかと言うと「対話」をまったくしないからに他ならない。だって与えようとしている人の話も何も聞かないで、ただ自分が努力し続けたからってどうにもならないところがある。
たくさん人の話を聞き、その話を沢山蓄積できれば、普通に情報は処理されていき、自分と他者との妥協点は見出せる。そこに商売のコツはあるし、生きたいくためのヒントがある。
私も文章上では偉そうなことを並べ立てているが、別に自分が正しいことを言っているという自覚は一つもなく、たぶんどこかで間違っているのだろうなという意識は常に持っている。
それでも、まずはやってみないことにはわからないし、自分の中の体験として色々蓄積はあるものの、腐っても創作に携わっているので、時代によって考え方も変わってくるだろう。
さて、例えば文章でどうしてもダメな人の中には、特に強く影響を受けた作家の文体に引きずられる人がいる。構成とか、人物設定とか。
無意識に「こうじゃなきゃいけない」みたいな考えが強くて、そのこだわりを捨てると自分のスタイルを見失う弱さがある。
新しいことに挑戦できない、もしくは変えられないというのは、逆を言えば引き出しの少なさをモロに物語っていて、普段何しているかと言うと、趣味の領域から出ずに、その領域でずっと楽しんでいる。
新しい知識を入れること、強いて言えば自分がまったく知らなかったジャンルを知っていくことは最初は大変苦痛だし、自分の思い込みが強ければ、思い込みを裏づけする資料のみを探し出すという了見の狭いことしかしなくなる。
好きなものばかり集めてもいいものはできない。ダメだと思うものも一旦自分の中で受け入れて処理する必要がある。つまりは、ダメはダメでも「何故ダメなのか」を感情をまったくいれずに考えられるようになると少しは見えてくるものがある。
当然一つのものばかりを考えてもいけない。本当にダメなものというのは、最低でも20くらいのサンプルを集めてようやく見えてくるものだ。
その点、いいものは結構たくさんある。大小こだわらないのであれば、発想を変えるだけで、いいものは見えてくる。
いいものというのは完成されていなくてもいいのだ。むしろ完成されたいいものというのは時間を止めなければあり得ない。
自分に劣等感があれば、いいものを見つけるのは難しい。そのまま自らのコンプレックスを刺激する材料にもなりかねないから。
でもね、世の中捨てたもんじゃないと思う。何も変わらない人生を送っているのならば、見知らぬ誰かと懸命に会話をすべく、外へ外へと出て行くといい。
大丈夫。恐れているほど自分は変わらないし変われない。
必要だと思ったら懸命に努力して変わっていけばいいだけの話だ。
[1回]
PR