先日伊賀焼の谷本洋さんとお話する機会ができた。
そこで「感謝」の話題が出た。
「感謝とは何か」
正直わからない。
誰かに何かをされてありがとうということで感謝になるのか、目に見えない、例えば水道電気ガスというライフラインを担っている人たちを慮り思いを巡らせるのか。
感謝とは何だろう。
人への感謝ができれば、その人間の底上げができるであろう、という話というか、あまり詳しく話したらいけないのだけど他者に紹介するのであれば、そんな内容だった。
言葉で表すには簡単な話だけれど体現するとなれば禅の世界になっていきそうなくらい深い話だ。
フィールドによっては宗教の話にまでなるかもしれない。
洋さんとの出会いは最悪だった。
いや、もう数度ネタにしたからやらないけど、今度は洋さんが「ブログに書いてさ」なんてぶり返すものだから「そうなんですよ、もう本当に」って話してる。
また繰り返して本当にしつこいけど「感性がない」と言われた。
「それを言わないといけない」と洋さんは後に語った。
そのことに関してはまだ感謝はしていない。成長しきってないってことだろう。
でも娘さんのミニコンサートに言った時「この人ダディーの友達」と言ってくれたことにはとても感謝している。
その時嫁だったかな? 嫁もいたけど他者から「ダディーの友達」なんてお洒落過ぎる言葉で紹介されたこと、そんな紹介そもそも日本人から聞いたの初めてだよと嫁と話して未だに2人の間で伝説になっている。
2人ともオペラ歌手の歌声を2・3メーター以内で聞いたことなんてなかったから、体に響いてくる振動は感動に値するものだった。
その時今は亡きクマさんもいてCDの曲の組み立てが素晴らしかったことは今手元にあるものを再度聞いて何度も思う。
これも感謝か。
今は洋さんも色々自分をいじってくれているし自分も少しだけ色々言えるし聞けるようになってきたから少しずつ友達になれているのかなとは思うけれど、その感性の深さへのリスペクトは最初に「感性がない」と言われた時の前から体感していた。
人生生きてきた中で何度か見抜かれていると思ったことがあったけれど、まずなんでかわからないけれど感謝できるのは谷本洋先生を引き合わせてくれたカジさん。
そしてそこから気にかけてくれるようになった洋さん。
結婚したと伝えた時風の器をいただいたけれど、その時買ったものが同じシリーズのもので偶然にも夫婦器になった。
買った時「え!?」って言われたけど買ってからわかった。
自分が買った物が大きい物。頂いたものがそれよりも少し小さい物。
こういう偶然性も、言葉に表せられぬ何かがあるのかな。
そしてお孫さんと同じ誕生日なんて、そんなことあるの?
不思議な話だ。
目に見えていることに対して素直さを出すことは感謝になるのだろう。
心から感謝をするには、目に見えないことを慮ることが必要だけれど、そこまで自分は瞬時の想像力がない。
ゆっくり時間を取って考えて、一人の時間を過ごしてようやく何か欠片だけわかるような、そういうものでしかない。
感謝を人に教えることは難しい。
だって自分だって理解していないのだもの。
想像力とは大きなものを理解しようとすることだと思っている。
芸術家は目に見えないものを想像して想像力を創造力に変えている。
では時として創造力とは感謝に繋がるのだろうか。
いや、きっと繋がるのだろう。
だって自分にはない力を借りて創造をしていて、その創造とは常に自分の見知らぬものや自分の既知を超えたものへと繋がろうとすることなのだから。
自分の今わかる感謝とはその程度でしかない。
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