このようなことを書くには、まだ早すぎる年齢であることは確かだ。
世の中には「食わせてもらっている身分で」と言う人がいる。
しかし、最近は子供を殺す親、親を殺す子供がまれにニュースで取り上げられる。
赤子を捨てる親、虐待する親。
核家族化によって不透明になった家庭環境が、風に当てられない傷口のように化膿しきっている。
すべての悲劇は当然のようにひっそりと始まり、ひっそりと終わる。
私の父親は、気分屋だった。
私は思い通りにはならない息子で、それゆえに誰かに見せるのも恥ずかしい子供だった。
私の父親は暗闇が嫌いなのか、寝るときに電気スタンドをほどんど消したことがない。
密閉された空間が嫌いなのか、寝室のドアは完全に閉めることがない。
コンプレックスの塊で、トラウマがあるように見えた。
その魂を軸にして、あらゆる罵倒や嫌味が出た。
物事を表面上でしか捉えず、深く考察することがなく、ほとんどの言葉は受け売りで、小心者で器が小さかった。
私は父親の財産をほとんど食いつぶしたといっていい。
文字通りの「ごくつぶし」だ。
私の家庭は親しく付き合っている親戚も含めて芸術家、及び芸に携わって世で活躍しているものを輩出したことがない。
それだけに、社会システムを遵奉しきっている、ごくどこにでもいる、他人と深く関ることもない平凡なサラリーマンだった。
私は父親が会社を辞めてから友人と遊びにいく姿を見たことがない。
そのかわり、退職金などで旅行に出たりする。
寝起きは必ず機嫌が悪く、視界を何度も横切ると機嫌が悪くなり、口答えすると機嫌が悪くなり、気に入らないことがあるとゴミ箱の底を漁るように過去の文句を言い出す。
自分が興味のないことには絶対に理解を示さず、大衆が評価を下したものから、さも自分が見つけてきたように自慢げに話す。
興味がなければチャンネルを数秒ごとに変えて、断片的に番組を見る。
そう、まるで気分もチャンネルを次々と変えて一周していくように変わる。
私が父親から学んだものは、「心の痛み」だった。
抑圧され、苛立ちと、怒りと、いつまでも心に残る罵倒に対する悲しみだった。
それはきっと自分がどうしようもない人生を歩み、長年にわたり苛立ちと、情けなさを父親に与え続けたせいだと思っている。
食卓で心から打ち解けて会話をしたことが記憶のある限りまったくない。
談笑とは程遠く、会話の糸口さえも余計な一言で打ち切られる。
だから、ゆっくりと食事をしたことがない。
まるで流し込むようにして食べる。
逆に男性にとって父親とまるで恋人といるようにべちゃくちゃと話しているのは気持ちが悪いだろう。
もしかしたら、父親と息子という関係が、真の理解を示すのは、互いにもっと年を取って様々な経験をしないといけないのかもしれない。
しかしこれからまったく普通の社会人には理解されないような領域に私は入っていく。
小説家も「芸術家」の一種だ。
ある意味ヤクザ家業であり、自分の人生を常に「経験」のために使う。
あらゆる意味において破壊を行い、創造をしていく。
嘘をついて金を稼ぎ、言葉で人心を操る。
私はこの分野において、はっきりと自分の未来が見える。
誰も信じない、自分だけが見ている未来がある。
そこへと行き着くだろう。
それでもきっと父親は理解してくれない可能性が高い。
きっと話し合っても、私が説明をするだけで、まるで夢物語を聞かされているような顔をするに違いない。
どこかに別の可能性を期待している自分がいるけれど。
長年父親の呪縛に精神を痛めてきた。
まだそんな程度では、どうしようもない子供であることは間違いない。
飛び立たなければいけない。
もう、悩んでいる暇はなくなってきた。
私の財産は「心の痛み」だと思っている。
これがなければ、私はもっともっと思いあがっていた。
十数年も苦しんで、ようやく人の痛みがわかりはじめてきている。
あとは「世間」に出れば、勝手にそこで罵倒や中傷や悪意が投げつけられ、また痛めつけられるだろう。
もう父親からは充分だろう。
私にとって「父親はどんな人間だったか」を語るにはまだ早すぎる。
若さゆえの浅慮は愚かさなのか。
皆等身大の悩みがあり、それは比較して語るものではない。
少なくとも私にとっては辛かった。
こう記しておく愚かさを、いつか「まだ若かったな」と笑う日も来るだろう。
しかしそれでも、感じていたことを素直に記録することは、むき出しの感情を忘れ去らないための、大事な作業。
陳腐で、幼稚で、くだらない。
こんな文章しか書けない文章家が、小説を書こうとしている。
こんな気持ちしか表せない人間が、小説を書こうとしている。
まだ足りない。
まだ痛みが足りない。
殺されるほどの痛みがなければ、何も見えない。
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