小説を書いている時、素直に文章を書いていたり、他人の文章を読んでいる時に、ふと気がつくことがあるのだが、家族への考え方というのが、自然と人間関係にも影響しているような気がする。
声劇の団体を作ってその人たちとも話すことが多くなったりしたけれど、やはり両親の間に何かがあった人というのは人の中に踏み込んでいっているようで距離感があり、自分の人との付き合い方はこうだから、と自らスタイルを決めている。
以前、子供に対して「優しい虐待」をしている母親をテーマに番組が組まれていたが、その内容はともかくとして、重要な点は「自分の親からされていたことを子供にもしていた」という点だった。
自分では忘れ去った過去が無意識領域に沈んでおり、ようは自分でも気がつかないレベルで行為がなされている。
この日記では何度も繰り返しているが、私は父親に対してはよろしくない感情を抱いていて、実に15年間の歳月を経て、負の感情へある程度の決着をつけることができた。
母親は辛抱強く、愚痴などほとんど言わなかった。
父親のことを言うと「私なんてもっと酷いこと言われてる」とよく言っていた。
当然私は両親の影響を強く受けている。
この両者がいなければ、わからなかった人たちも数多く存在する。
つまり、繋がりえなかった人たちがいた、ということだ。
そして、その「繋がり」の中で人生は展開される。
どんなに会社や学校の環境などが変化しても、自然と付き合う人は絞られてくる。
私がいたところで、一言必ず多い社員はバイトの連中と仲良くしていると思っていたけれど、バイトの人たちは誰一人として一緒に飲みに行きたがらなかった。
その人間の価値観や癖が、そのまま自分の人生に跳ね返ってくる。
当然その人の「仲間」は、似たような価値観を持った人たちが集まってくる。
そして「仲間」が一人でもいると、嫌味や愚痴にたいそう拍車がかかった。
そのように、私たちは自分の価値観を認めてくれる人を傍に置きたがる。
その価値観の共有意識こそ、「安心感」「自らの存在意義の肯定」と思っているところさえある。
私はまだ若輩浅学。
その先のことは断定できない。
このことは人間が元々持っている弱さなのか、それともこの社会が抱える「家族という不安」なのか、それとも別の根本的な問題があるのか。
コミュニティーの崩壊というのもよく言われることではある。
「家族の問題」を心の中で解決できていない人は、どこかしら影を落としているし、あまりよくない発言を時折する。
愛情の存在を怖がっているし、利便性の高い関係を好む。
何が正しい形か、なんてそんなことは他人に決められることじゃない。
だからこそ、「書き尽くされた」と言われる小説だって、誰も書き止めない。
私たちは大人になれば「大人の事情」を重視するけれど、実は私たちはその「価値観」を下の世代へと受け渡していっている。
そして受け取った子供たちは、自分たちが受け持った社会の中で心を対応させていく。
心は完全制御可能なものではないし、ゆえに集団社会は完全統率されることはない。
あらゆるSF小説がディストピアで不幸な上体にあったとしても、つまり社会に住む人間が何かによって完全にコントロールされていたとしても、そこから逃れる人間がよく描かれるように、心は他人が決められるものではない。
人の人生は「家族への考え方」が強く出るというのが今のところの私の実感だ。
そしてその「考え方」と「姿勢」は、だいたいは受け継がれていく。
それを変えられるのは「強い意志」でしかない。
よく考えてみれば、自分を産んでくれた存在。
その存在を否定するのは、そのまま自分の存在を否定することになる。
それでは心にしこりが出るのは当然だろう。
いちいちそのことで心を悩まされることになる。
どれだけ腐っていたとしても、反面教師にはできる。
「ああはなりたくない」と努力することは可能だ。
そうしてほんの少し自分の心を変えていくことはできる。
人を取り囲む環境はそれほど単純なものではないし、色々な要素があって今の家庭があったりするのだから、簡単に心は変えることなどできやしないが、ほんの少しの気付きで、そしてほんの少しの勇気で、関わる誰かの気持ちが少しだけ幸せなものになるのなら、きっとそれは素敵なことなのだろうと信じている。
自分の「家族」と「自分の行動」は、ゆっくり考えてみると面白い発見がある。
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