どうにも面倒くさがりのようで、とにかくさぼりたがる。
苦労するのが本当に嫌だし、ずっとゲームでもしていたい気分だがそうもいかず、今年三月に折った足のリハビリを今もやっている。
と、言っても歩く分には何も問題なく、走ると少し折れた部分の筋肉がおかしくなる。捻挫のような症状が出てくるので、休み休み負荷をかけながら走っていた。
最初は歩いているおばあちゃんと同じくらいの速度で走っていたけれど少しずつ足に負荷をかけて走れるようになってきている。
筋肉というのは、当たり前だが動かさなければどこまでも衰える。
心も同じように思える。
勇気を出して負荷をかけていかないと筋肉も心も衰える。
気持ちというのは最初からできるものじゃない。
だから作っていくものだと、つくづく思う。
何せ10年ぐらいはネット生活していたんだから、わりと心は弱っていた。
やはり心にも筋肉にも鍛える順序がある。
もちろん筋肉は小さなところから。それは休み休みでもいい。筋肉ができるまではすぐにばてるし、すぐ筋肉痛になって動けなくなる。
心の場合、小さな成功体験が必要になる。
他人から見たらバカらしい目標設定でもいいのだ。
例えば10m走れた。
昨日できていないところができていれば充分だ。
その小さな積み重ねの連続の先に大きな目標がある。
そうやって「出来た」という気持ちを作っていく。
もしどうしても大きな目標から減点方式で「出来ない」と思ってしまうのなら、よほど欲があるか何かに脅迫されているかなので、一旦誰の声も聞かずに記録でもつけていけばいい。
純粋に記録から自分の成長具合を観察していくしかない。
心が弱っていると聞こえないはずの否定的な言葉が聞こえてくる。
自分も未だに聞こえることがある。そして苛立ち、どうしようもなくなって、じっとするか酒をあおるかする。
心は鍛えるしかない。そして自分のいいところは自分で見つけるしかない。
そうやっていいところを見つける目を養えれば、他人を馬鹿にする心も消えてくる。
正直自分の心がギスギスしている時は他人のことを無意識に馬鹿にしている。
心が豊かではないから、他人を貶めて自分の存在価値を高めようとする。
心が卑しい存在が集まると、クリエイティブな発想、何かを創り上げていこうということにはならず、だいたいは破壊し合う。
こうなってしまってはいけない。
走っているが、次の日足を引きずるほどおかしくなることが多々あったが今は安定している。
自分に対して負荷をかける。同じところをぐるぐる回るのは嫌だからコースを変える。
少しずつ負荷を強くする。自分で自分をいじめるのだ。そうして強くしていく。
自分の道は自分で切り開くしかない。
大人になったら誰も何もしてくれない。ただ人は人の心意気に打たれる。
そうやって進んでいった先に、結構な仲間が出来たりする。
人を馬鹿にする癖がついていると、自分を貶める癖も同時につく。
自分の存在を無視して他人を語ることは、自らを偽っているし、自己欺瞞がないと思い込んでいるのは自分だけになるから、ちゃんとした人はだんだん相手にしなくなる。
筋肉はすぐ弱る。
本当に、ほんの2・3日さぼっただけじゃないか、と思っても、すぐに弱っているのが感触でわかる。
続けていかなきゃいけない。
継続は力なり、とはよく言うけれど、本当に自らの力で継続している人間をあまり見たことがない。
最近職人さんや企業家・社長の人たちと繋がってきているので、ようやくその手の人たちの言葉を少しずつ聞くことができているけれど、例えば批判されたとしても創意工夫をすることができずに、ただ「批判された」で終わるのが普通の人。
その中から戦うためのヒントを得るのが前へ進んでいる人。
いつも文句を言っている人は発想を変えることがないし、多分その必要性がないのだろう。だから、ある意味なんやかんやいっても安定的な生活をしているのだと思う。例えば底辺のままであるのなら、それもまた安定と言えるからだ。
進んでいけば見えるものもある。
千里の道も一歩からなのだが、あまり短期間で物事を達成しようとすると弱った心や体には相当悪い。
なのでゆっくり歩くといいのだ。
必ず何か見えてくる。
※追記
走っていていつも無意識でも浮き上がってくる感覚がある。
下を向いて走ると本当に辛い。だから姿勢を正して、前を向いてしっかり走らないと体が非常に辛くばてていく。
だから辛い時は顔を上げないといけない。前を向かないと地面に倒れる。
その感覚を走るたびに教えてくれる。
だからこそ少しずつでもしっかりやる。
その中に美しさが出てくる。
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