私の周囲の人は実際に行動を起こしている人ばかりだから、実体験と情報とを分ける。
つまりどこかで読んで聞いて知ったような内容は情報で、実践の内で学び得たものを体験とし、どちらも情報だけれど明確な線引きをする。
情報にはあまり興味を示さず、体験にのみ興味を示す人がほとんどだ。
ちょっとかじった程度で語りたがるような次元であれば、もう馬鹿にされてしょうがない。
黙れ、というレベルで嘲笑される。
当然私も少しはやっている方なので、やっていない人が語る言葉とやっていない人が語る言葉の区別はできるようになった。
この差がわからず、知ったつもり身についているつもりでしゃべっている人は、たぶん指摘されても何を指摘されているのかわからないだろうし、自分よりも程度の低い人を相手にするしか持っているものをひけらかせないので、だんだんと低いところへと走り、時には上の人には陰口しか叩くしか手段がなくなる。
そのようなことをやっていて高潔な精神が身につくはずもなく、かといって含蓄のある経験則が積みあがることもない。
つまり何年経っても成長しない。
不思議と環境に囲まれて人生そのものを諦める方がちらほらいる。
中にいるうちは気がつかないのだが、実は自分で毎日「そうであるべきだ」という内容の暗示をかけている。
かく言う自分もそうだった。
自分で強烈な現状肯定の暗示をかけていて、抜け出せることはまずない。
私の場合どこでちょっと意識を変えられたかっていうと、運よく愛してくれる人が現れたってことだった。
誰かを好きになるくらいでは、やっぱりあまり変わらない。
愛情を持つというのは、好きになることよりも、もっとエネルギーを使うし、しかも自然にエネルギーを使う。
世の中には愛だとか恋だとかの定義がバラバラすぎて、感情的な言葉は全て自分基準で語られるけれど、私を愛してくれた人は少なくとも家庭は犠牲にしてたし、中途半端な犠牲は捧げなかった。みんなそうだった。
それと、何でも気に入ることをしてあげることを愛情だと勘違いしている人もいるが、これも違う。
ダメなものをダメだと言える勇気がなければ、ただの馴れ合いだし、好いてもらうために媚びていることにもなるし、もしくは自分の欠点を指摘されたくないための倒錯した自己愛の投射であったりする。
私の場合愛してくれる人がいて、そしてようやく少しずつ這い上がってきたようにも思える。
色々なところで手を差し伸べてくれたし、喜んでくれた。時には厳しくしてくれた。馴れ合いはそこにはなかった。
環境に囲まれている人は無意識に自己暗示をかけている時が多い。
「~しなければならない」といった内容で毎日のように自己暗示をかけている。
頭でっかちの人や、考えているようで実体験の乏しい人は、何かを得てきても己の咀嚼力や懐疑的な客観性に乏しいため、自分で薄っぺらい結論を導き出してよしとする。
実際に目で見て感じられて、それが日常レベルで体に残っていなければ、まず意味を成さない情報となってくる。
なぜならば環境下の暗示が、一度や二度の情報で覆されるはずがない。
暗示のほうを肯定するために、様々な情報を集めてきて、「そらやっぱりみたことか」という行為を繰り返しているのだから当たり前のことなのだ。
じゃあどうすればいいのかっていうと、行動している人の傍にずっといるか、もしくは自分で習慣を作るしかない。
世の中には「頭で覚えていること=わかっていること=身についていること」とする人が多すぎて話の次元が合わない時が多々ある。
当然やっている人からも相手にされなくなる。
気がついたら自分より馬鹿な人間を相手にしてふんぞり返ったり、何一つディティールがわからないくせに別領域の人間や行動を知ったようなフリをして嘲笑したりと、ほぼ程度の低いところへと落ち着き、最後は腐り果てる。
そこまで行く人はなかなかおらず、なんらかの歯止めを自然とかけていく。
もしこの過程を辿りそうなら、愛するものを探したほうがいい。そう簡単ではないのは当たり前の話なのだ。もしかしたら今抱えている環境は全て捨てなければならないこともあるのだから。
勇気がもてないのなら、愛するものも持てないだろう。
それは自己愛とは程遠いのだから。
ってことで、自分「人を幸せにしたぶんだけ成功する」って言葉があまり身にしみてなく、落ちるだけ落ちていたので、また身にしみつけていこうと思っております。
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