いいかい? 君たち。
難しく考える必要はないんだ。
上手い文章を書こうとか、人を感動させようとか、ちゃんと評価されようとか、とにかくまずは人のことなんて気にするんじゃない。
今目の前に映っているものは何か。
今見つめようとしているものは何か。
観察して、見えてくるものがある。
それが単語でもいい。
並べられるだけ並べてみなさい。
じゃあ、視点を動かさずに見えるものは、書いたものだけなのか。
色は? 匂いは? それは自分の持ち物? 他人のもの? 誰かが作ったもの?
どうしてそれはそこにある?
どうして自分はそこにいる?
何故それを見つめようとしたんだ?
その全てが世界への切り口となるんだ。
そして集め、集めたもので組み立てたものが、君の世界だ。
君の世界観だ。
君の人生の一時を彩るものだ。
これは別のものでも組み立てることができる。
君は君自身が集めてきたもので、いかようにも世界を組み立てることが出来る。
つまり、君の世界観は視点を変え、見つめるもの、集めてくるものがちょっと違えば、自分の中で組み立てるものも違ってくる。
自分の中で組み立てるものが違えば、自分の中の価値が変わってくる。世界が変わる。
同じものを集めたとしても組み立て方でまた違ってくる。
同じものを集めても、人が違えば組み立ての仕方が違ってくるから別物ができる。
だから各々は別々の世界を持って、そして集まれば別々の世界を持ち寄っている。
別々の世界を持ち寄っていながら、どこか僕らは共通の何かを見出そうとして、そして等価交換をしたがるのだ。
同じ価値のもので繋がりあえば、僕らはきっと安定するのだろうと、どこかで幻想を抱いている。
しかしそれは、ただの幻想であって、結局は本当の自分を隠しながら、妥協できる部分で演技を上手くして生きるということだ。
こうすれば非難はされずに済む文章を書ける、という、どこか脅迫めいた、監視でもされているかのような目に見えぬ圧力によって、心までも歪まされて矯正されていく。
これは本来の文章活動からはおおいにかけ離れるものだ。
何故なら、最初に訴えた通り、君自身の目に映ったものが君の世界を彩るからだ。
君がそこに立っている限り、君と同じ景色を見られるものはいない。
わかるかい? 立ち位置が既に他の人と違うし、たとえ君と同じ位置に立っても身長が違ったら見える高さが違う。
体重が違ったら感覚だって違うだろう。
君が立って感じたように、同じ風は吹いているのかい?
君が見たのと同じように、次の人は記憶を同じに出来る?
答えはNOだ。
君がいる分だけ誰かは他の感覚を得る。
君がそこにいる分だけ、誰かは君一人分の感覚を得る。
それが素直な言葉になっていくんだ。
だから誰かに受けようとか、よく見せようとか、そういうことを考えては本当の文章は書けないんだ。
君はどう頑張っても他人の感覚そっくりそのままにはなれないんだ。
だから無理に合わせようとすると、自分に対しても他人に対しても嘘ばかりつくようになって、本当の自分がわからなくなってしまう。
だからその前に自分で見えたもの感じたものを単語でもいいから書き並べる。
そこから本当の文章への第一歩が始まるんだ。
まずは何も考えずに、憧れも価値も捨てて、自分の体で得たものを書いてみるんだ。
どうなったって大丈夫。
君は死ぬことはない。
何も怖くはないさ。
君一人がそこに居るという時点で、言葉は、世界は、作られていっている。
[1回]
PR