春の陽気は押し出され、熱気交じりのべたつきが肌を覆うようになってきていた。
深夜に雨が降ったのか、アスファルトはまだ水溜りが多く残り、部屋は蒸してカビ臭い空気が鼻の奥をくすぐる。
古臭いアパートの一室は気分が悪くなりそうなほど過去の何かの臭いが充満している。汗にべとついても節約のためにシャワーは一日一回、その他は濡れタオルで体を拭くくらいしかできないし、ましてや貧乏生活では、屋根と壁があるだけマシだと思わなければやっていけない、とユウジは思った。
小さな卓上時計を見れば針は早朝五時を示している。その傍にある布団を見れば見知らぬ女が転がっている。
名前も知らぬ、誰か。互いに酔っ払いすぎていて聞いた名前も、もう忘れていた。
みか、みさと、みゆき、み、み、み、みえ、み、み、み、み、みちこ。
まだ酒が残っていてユウジの頭は粗悪な鐘を鳴らしたように不協和音を響かせている。
顔すらもよく覚えていない女を覗き込むと、マスカラは落ちてパンダのようになっているし、チークは落ちて精気のない色を晒していた。正直見れたものじゃないと顔を背けかけ、シーツについた化粧の汚れに不快感を覚え、怒りすらも湧き上がりかけた時、ふと完全に化粧の落ちている頬の美しさが目に入った。
もしかしたら化粧を落としたら案外綺麗な肌をしているのかもしれないと、塗装のように厚く塗られた顔の奥を想像していた。
部屋を見れば昨日自暴自棄になり投げ出した楽譜が散らばっていた。汗か涙かわからない雫でインクが濁って音符がぼやけている。
投げ出したのに、捨てきれず、破ることもできず、心臓に無数の掻き傷を作りたいくらいなのに、まだどこか大事に思う未完の作品。
抱いた女の、汗に冷えた肌がへばりつく妙な感触だけが体に残っている。それなのに熱い湿気が起きたばかりのユウジの発汗を促す。
自らに対し怒り、焦り、関係のない記憶まで呼び起こして泥沼に自ずと堕ちていく。出口が消えて闇に飲まれる。創ることはユウジにとって苦しみなのに、これしかできない不器用さを憎んでしまう。
譜面を踏み、足裏にへばりつく。剥がして見ると最後のページだった。
ピアノ曲。「ミ」で終わって、その先がない。
み、み、ミ、ミ、ミ。
起きたら女の名前をきちんと聞こうと決心し、部屋に散らばった楽譜をユウジは集めだす。
今日は真夏日になると昨日の天気予報が告げていたのを思い出した。
[1回]
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