「なぜ始まったのか」という理由はどこにでもある。でも終わってみれば、「なんのための戦いだったのか」という疑問がふと浮かぶ。日本でもこんな懐の深い映画を作る人がいないのだろうかと思ったけれど、映画としてとても面白かったです。
「父親たちの星条旗」は、硫黄島での戦闘よりも星条旗にまつわる人間ドラマと言ったほうがよく、戦闘シーンは「硫黄島からの手紙」のほうが断然多いです。両者に共通している人物像は「国の事情に巻き込まれた人たちの心理模様」です。
「トラトラトラ!」も一緒に載せたのは、70年代の古い映画なのですが、真珠湾攻撃直前直後までの様子が公平な視点で描かれています。「パールハーバー」のような、いかにもハリウッド的、タイタニック路線でいこうや、みたいなスポンサーの興業的な意図がミエミエのいやらしい映画とはまったく違います。
例えば、ちょうどよく今憲法9条のことで何かと話題になっている。私自身は軍隊を持っている矛盾を解消するために憲法の条文をあわせるべきだとは思うけれど、私自身は米軍への日本国外での補給活動を含める軍事行動は排除すべきだと思う。「自衛」という観念でどこまで軍事行動を認めるかは大きな論点にはなるだろうけれどね。ミサイルも核も細菌もある時代で「自衛」の範囲はとことん、ほとんど地球全土に及ぶほど広がる。
しかし国外での外国部隊への補給活動においてはよく考えたほうがいいと思う。補給こそ戦争の要であって、補給なくして戦争はできない。つまり、補給こそ戦争行為そのものだからだ。それをもう少し認識したほうがいいとは思っている。「日本は戦争をしない」という思想を貫くのなら、その思想に根ざした動きを徹底させるべきだと思う。
日本は戦争に負けた。負けて、ここまで来た。我々は何を失って何を得たのだろう。そんなことを考える人間は若い人の中ではほとんど見たことがない。太平洋戦争・大東亜戦争で戦った日本人たちは、何のために死んだのだろう。何のために殺したのだろう。国を守るため?歴史を守るため?民族としての誇りと名誉を守るため?
たった一日でも平和を伸ばすために、どれだけの人が犠牲になって死んでいったのか。どんな思いがあったのか。硫黄島のほうではよくそれが出ていると思う。
ナショナリズムという言葉がある。政治学を見れば小難しいことが書いてあって、結局わかったようなわからないような感じで終わる。
私はナショナリズムというのは、土地を愛する気持ちだと思う。友を愛する気持ちだと思う。大事な人を心から思いやる気持ちだと思う。それらは、人間同士の人情的な付き合いから当然うまれてくるものだと思う。そういうものが、国を愛する気持ちになるのだと思う。
本当に美しい国ってなんだろう。彼らの死に値するだけの国ができあがっているだろうか。アメリカ人や日本人たちが流した血に値するだけのものが出来上がっているだろうか。
私は国が真に滅びるときは、国民が誇りを忘れ去った時だと思う。「こんな国なんてどうでもいいや」とかいう気持ちが蔓延した時にはきっとガタガタになる。
ナショナリズムを小難しく展開しなくてもいい。ただ、「自分たちは何者であるか」という認識を持っていなければ、名前も名乗れない人間に等しい。
日本人が日本人であるための定義なんて都会に行けばぶっ飛んじゃう。日本。日本ってなんだ。高層ビルやネオンきらめく繁華街や経済事情に振り回される人たち。きっと彼らにとってはどうでもいいことなのかもしれない。そしてそこに育つ子供たちはどこか打算的に物事を考える癖がついている。かく言う私もそう。とことん打算的な思考がついてずる賢く動くようになった。
日本人は何を守って戦ったのだろう。長い年月がたつと、とことんわからなくなりそうで、今でもモヤモヤとした気持ちが残っている。
ぜひ、片方だけではなく両方見てください。
いずれ、日本人監督の中にもアメリカに恩を返せるような懐の深い監督さんが育っていくことを心から願っています。
[0回]
PR
http://asakaze.blog.shinobi.jp/%E6%98%A0%E7%94%BB%E3%81%AE%E6%97%A5%E3%80%85/%E7%88%B6%E8%A6%AA%E3%81%9F%E3%81%A1%E3%81%AE%E6%98%9F%E6%9D%A1%E6%97%97%E3%80%80%E7%A1%AB%E9%BB%84%E5%B3%B6%E3%81%8B%E3%82%89%E3%81%AE%E6%89%8B%E7%B4%99父親たちの星条旗 硫黄島からの手紙